日記2000年09月18日

会社の帰りにバスに乗る。バスの時間ぎりぎりだったので、会社から200mくらいダッシュしたら、それだけでヘトヘトである。42キロ走った後の高橋尚子より疲れている。一日中メカ設計の問題に悩まされたあげく晩飯も食わずに残業をしたのだから、走る前からヘトヘトなのである。バスの座席で本を読む。前は車の中で本を読むと気持ちが悪くなったものだが、去年一年間かけて帰りのバスで「カラマーゾフの兄弟」と「戦争と平和」を読んでいるうちに、慣れて平気になってしまった。

今読んでいるのは「生存する脳」という本で、感情は身体から生まれるのだという説が脳科学的に書かれている。僕の考えていることとほとんど同じである。心の中で賛辞を捧げる。英語が書ければ手紙を送りたいくらいだ。本のカバーを見ると、著者のアントニオ・R・ダマシオ氏はアメリカの神経学者だがポルトガル出身である。最近はラテン系やアジア系の人が面白いことを言っていることが多いような気がする。

僕の降りるバス停が近づいたので「降ります」ボタンを押して、財布の中から回数券を取り出す。「つぎ、とまります」というアナウンスが流れる。本の続きを少し読んだところで、バス停に着く。本をリュックにしまい、回数券を料金箱に入れてバスを降りると、冬の前兆のようなひんやりとした空気を感じる。シャツの上に着るものを持っていたはずだ...。

僕は今朝、綿のセーターを着て家を出た。会社ではセーターをロッカーにしまった。帰りに会社のロッカーで着替える時に、急いでいたので、セーターを手に持ったままタイムカードをスキャンして走って外に出た記憶がある。ということは、バスの座席に置いてきてしまったのだ。あのバスはここから1キロほど先が終点である。終点に着くと、時間調整のためにしばらく止まっている。今から家に帰って車で追いかければ、充分間に合うだろう。

家まで300mくらい駆け足で帰る。「ただいま」と言って、またすぐに車で出かける。バスの終点に行くと、ちゃんとバスが止まっている。バスの前に車を止めて、外で休憩している運転手に「服を忘れたんで、取りに来たんです」と言うと、「忘れ物は無かった」と言われる。バスの中を見させてもらうが、確かに無い。

家に帰り、遅い晩飯を食べる。牛肉とエリンギの炒め物と栗ご飯と厚揚げ。僕はキノコ類があまり好きじゃないのだが、エリンギは旨かった。僕が服を無くした話をすると、息子が「会社で社長が拾って、落とし物ですって書いておいてくれるんちゃうか」と言う。「保育園で園長が」というイメージなのだろう。

翌朝、いつものように車で保育園に寄ってから会社へ行く。バス停の近くの駐車場に車を停めて、昨日走った道をたどってみるが、セーターは落ちていない。着古したセーターだから見つからなくても別にいいのだが、自転車や人に踏まれてボロボロになっていたら、僕が落としたゴミだから拾ってゴミ箱に捨てようと思ったのだ。どこに行ったんだろう、ミステリーだなあと思いつつ、会社に着いてロッカーを開けると、そこにセーターがあった。