マイケル・ジャクソン2009年07月02日

マイケル・ジャクソンは子どもの頃、興行やレッスンのために普通の子どものように遊ぶことができなかった。父親から暴力も受けた。それで、父親を憎みピーター・パン的に子どもの世界に執着するようになった。父親に似てくるのが嫌で整形までしたようだ。そういう話を聞いているうちに、村上春樹の「1Q84」の主人公たちと似ていることに気付いた。

「1Q84」の主人公の二人はどちらも子どもの頃に親の都合で連れ回されて、他の子どもたちのように自由に遊んで過ごすことができない。そのことで深く傷付き、親と断絶する。大人になってからも精神のバランスを保つのに苦労する。

子どもは自由に遊ぶことが必要である。マイケルと「1Q84」の教訓はそういうことだろうか。では、スポーツや芸能の世界で天才少年少女としてもてはやされているような子どもたちは大丈夫なのか。子ども時代を犠牲にしてスターになることは良いことなんだろうか。そういうことを考えつつ「1Q84」の冒頭のあたりをパラパラと読み返してみると、 なんとマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が出てきた。

ウィキペディアで調べると「ビリー・ジーン」が出たのは1983年で、白人の曲しか流れないMTVで初めて流れた黒人の曲だそうだ。なるほど。僕は黒人音楽がわりと好きだが、マイケルの曲は黒人っぽくなくてあまり興味が湧かないなあと思っていたのだ。マイケルは黒人向けのソウル・ミュージックから離れることで白人中心のポップの世界で成功したというわけか。

「スリラー」の前のアルバム「オフ・ザ・ウォール」はソウルとしての評価が高いようだ。昔誰かにカセットテープを借りて聴いたような気がする。追悼の意味でCDを買って聴いてみようかと思う。

「吾輩は猫である」 夏目漱石 (新潮文庫)2009年07月04日

意外に分厚くて、文庫本で500頁以上ある。最初のうちは退屈で200頁くらい読んだところで挫折しそうになったが、段々面白さが判ってきて後半は楽しめた。漱石の文明批判、西洋批判はお説ごもっともで、100年後の今でもそのまま通用する。

漢語混じりの江戸落語の口調で猫が皮肉っぽいことを言うのが面白いのだが、猫が語るというのはファンタジーだ。それ以外は完全なリアリズムなのに、なぜ猫が語るという設定なのだろうか。

形式上は猫が語る一人称小説だが、最初と最後以外は猫視点をやめてもほぼ同じ表現のまま三人称で書けるはずである。漱石は神様視点の三人称を避けるための工夫として猫視点を創り出したのだと思われる。

最初と最後に語り手が物語の外側で語る構造、大したストーリーがなく断片的な話題の集積であるところなどは村上春樹の「風の歌を聴け」と同じである。「モンキービジネスvol.5」のインタビューによると、村上春樹さんも最近漱石をまとめて読み直して面白かったとのこと。ただし「こころ」は何度読んでも好きになれないという。

「THIS IS IT!」 ベティ・デイヴィス2009年07月11日

友人が貸してくれたCD。今までに聴いた中で最も激しくコテコテなファンク。万人向けではないと思うが、僕は気に入りました。腹の底から絞り出すような声で圧倒される。作詞作曲編曲も自分でやっている。これは只者ではない。

この人はマイルス・デイヴィスの2番目の結婚相手で'68年に結婚する前の名前はベティ・メイブリー。「マイルス・デイヴィス自叙伝」をめくってみると、マイルスは「彼女にジミ・ヘンドリクスやスライ・ストーンを紹介してもらったし、彼女自身も素晴らしい才能を持っていた、もしベティが今も歌っていたらマドンナか女性版プリンスになっていただろう」と言っている。マイルスがブルックス・ブラザーズを着るのをやめてド派手な格好をするようになったのも彼女の影響だったようだ。

しかしマイルスとの結婚は1年で終わり、ベティ・デイヴィスは’73年から’75年に3枚のアルバムを出して音楽活動を止めてしまう。このアルバムはその3枚から19曲選んだベスト盤。なんか短期間に爆発的に才能を発揮した人のようだ。

三権分立2009年07月12日

日本の国家機構は司法・立法・行政の三権分立であると中学の社会科で習ったような気がする。しかし、ホントはそれがどうもうまく機能していないようだ。恥かしながら最近まで知らなかったのだが、日本の法律のほとんどは立法担当の国会議員ではなく行政担当の官僚の皆さんが作っているらしい。だから珍しく国会議員が作った場合にはわざわざ「議員立法」などというのである。じゃあ、国会議員が国会で何をしているのかというと、官僚の皆さんが作った法律を成立させる儀式をやっているだけだということになる。

司法の裁判官・検察官・弁護士は司法試験に受かった人がなる。行政の官僚は国家公務員試験に受かった人がなる。立法の国会議員は選挙に通った人がなる。司法と行政の担当者はペーパーテストで選ばれて、我々が直接選ぶことができるのは立法担当だけである。その国会議員が儀式をやっているだけではイカンではないか。これはつまり、日本国の国家システムの現状では一般市民がないがしろにされているということだが、ちゃんと立法の仕事をしない国会議員を選んできた我々の側にも問題がある。そこんとこは今後注意しなくてはいけないと思う。

三権分立の日本国において立法の担当者は遊んでいて、実際に権力を行使しているのは司法と行政の担当者である。その人たちは暗記物のペーパーテストで選ばれている。暗記物のペーパーテストに最も強い人が行くのは東大法学部である。だから現在、司法のトップである最高裁判所裁判官は15人中7人、官僚のトップである事務次官は14人中9人が東大法学部卒である。なんでそういうことになっているかというと、東大法学部というのが明治初期に官僚養成のために作られたものだからだ。明治維新以来、太平洋戦争の敗戦を経ても日本国の実態は変わっていないわけである。

現在の日本と世界の状況は全く先が見えず混沌としている。そこには正解と呼べるような答えは無さそうである。そういう状況で「正解のあるペーパーテスト」に強い人たちだけが日本の国家権力を行使していて良いものだろうか。結局、国会議員がもっとマジメに立法をせんとイカンのである。それと、司法試験や国家公務員試験に創造性や感性を評価する正解の無い科目を取り入れるべきである。以上2点をマニフェストに取り入れる政党があれば、僕は応援します。

「Off The Wall」 マイケル・ジャクソン2009年07月18日

「スリラー」の前のアルバム。歌い方は静かで裏声が多く、「スリラー」のようにシャウトはしない。よく聴くと、センターのメイン・ヴォーカルがちょっと遠くて、左右に振った多重録音のコーラスが近くて大きいという妙なミキシングになっている。これはマイケル独特のような気がする。

マイケルが作曲しているのは2曲だけである。いろいろな人が作曲していて、ポール・マッカートニーやデヴィッド・フォスターの曲もある。そのためにまとまりに欠ける。プロデューサーのクインシー・ジョーンズと一緒に、ソウルからポップに移行する過渡期の試行錯誤をしていたのかもしれない。2つのコードを延々と繰り返すような曲が多くて、ちょっと退屈。じっくり聴くためではなく踊るための音楽。ディスコ・ミュージックですね。

ジャケットの写真を見ると、まだ生まれつきの可愛い顔をしている。あらためて最近の風貌とのギャップを考えると痛々しい。今週はMLBのオールスターの時にオバマ大統領からサインをもらうイチローと、全英オープンでタイガー・ウッズとプレイする石川遼を見て、マイケル・ジャクソンのことを思い出した。マイケルは昔「黒人のスーパーマンがいますか? 黒いティンカーベルがいますか?」と言ったそうだが、今ならオバマもタイガーもいる。

ドラマ「官僚たちの夏」2009年07月20日

テレビドラマはほとんど見ないのだが、これはなかなか面白いので見ている。高度成長期の経済の話だし北大路欣也が出てくるので、「華麗なる一族」とやや雰囲気がかぶる。佐藤浩市が演じる主人公の風越信吾は私欲が無くてカッコイイ。ウィキペディアを見ると、モデルは佐橋滋という実在の通産官僚で、やはり東大法学部卒。

霞ヶ関をどうするかを争点として総選挙が行われる時期に、官僚の存在意義を強調するドラマをやる理由は何だろうか。「こういう官僚たちのおかげで日本は経済大国になれたんだから、あまり苛めないであげよう」というキャンペーンなのか、それとも「昔はこんなに存在価値のある官僚もいたが、今の官僚はどうだろう」というネガティブ・キャンペーンなのか。

ところで、堺雅人の無造作風ボサボサ頭は時代考証的にアリですか。ビシビシの七三分けにしてもらいたい。それとエンディングに流れるコブクロの曲も雰囲気が合っていない。でも何が合うか考えてみたら意外に難しい。歌ものはダメだと思うが、「華麗なる一族」みたいな大層な曲は似合わないし、'60年頃のジャズはどうかな。マイルスかハービー・ハンコックの緊張感があってちょっとリズミカルな曲。

レンズ工場2009年07月23日

伝手があって、レンズ工場を見学させてもらった。住宅地の中にある町工場である。工場の2階に上がって小さい会議室で社長と話していたら共通の知り合いの名前がたくさん出てきた。光学業界は狭い。このご時勢でやはり業績はかなり悪いらしい。今年はどこでもそんな話ばかりだ。

技術課長さんが現場を案内してくれる。機械部品やプラスチックレンズの工場はいろいろ見たことがあるが、ガラスレンズの加工を見るのは初めてだ。研磨機がたくさん並んでいて、丸いお皿に貼り付けたレンズに研磨材の入った泥水みたいなのをかけながら磨いている。何十年も変わらないやり方だそうだが、精度はミクロンレベルである。その後もいろいろな工程を説明してもらって面白かった。知識としては知っていても現場を見ると勉強になる。

この会社は有名な大企業の仕事が多いのだが、コストや品質で厳しいことばかり言われているという。下請法はちゃんと守られているのだろうか。大企業はエラそうにしているが、こういう町工場がどんどん潰れていったら困ったことになるはずだ。日本の製造業はこういうところが支えているのだ。

緑茶割り2009年07月24日

暑いのでビールがうまくてゴクゴク飲んでしまうが、そのときは良くてもしばらく経つと五分五分くらいの確率で頭が痛くなる。やっぱり焼酎が平和で良い。過去の研究により芋焼酎は「久耀」、泡盛は「琉球クラシック」に収束した。濃いと酔い過ぎるので薄い水割りにして飲んでいたが、味が薄すぎて寂しい。

スーパーで「アサヒお茶酎 玉露と抹茶チューハイ」というのを見つけて買った。「チューハイ」のハイはハイボールのハイのはずだが、炭酸は入っていない。味は結構気に入ったけど、甘みが無いのがおしい。

翌日、「久耀」をサントリー「伊右衛門」で割ってみたらウマイではないか。さらに次の日、コカコーラの「綾鷹(あやたか)」で割ると、久耀の甘みと綾鷹の香りが合体して非常に具合が良い。これは美味い! 当分これでいくことにした。

政権交代2009年07月25日

今度の総選挙で「脱官僚」を掲げる民主党が勝つかどうかはまだ分からないし、民主党政権が順調に続くかどうかも不明だが、本当に「脱官僚支配」がうまくいったらすごい。そうなったら、50年続いた自民党政権からの政権交代じゃなくて、140年続いた官僚幕府が滅ぶというリボリューションである。

うちのトイレに貼ってある日本史年表を見てみると、140年というのは鎌倉時代と同じ長さだ。日本史年表では鎌倉時代の後、室町、安土桃山、江戸と来て、明治、大正、昭和と続くわけだが、百年後の年表では明治から平成21年まではまとめて「東京時代」になっているかもしれない。

この際、遷都をすれば時代区分がはっきりするのだが、遷都というのは中央集権の発想だからダメである。201X年、大阪府知事橋下徹の尽力により地方分権が確立し、日本は首都という概念を廃止するに至りました、というのが面白いかもしれない。廃都キャンペーンのゆるキャラは「はいとくん」。国会は毎年各道州に持ち回りで設置。初年度は関西州都の大阪WTCに置かれた。

「漱石文明論集」 (岩波文庫)2009年07月29日

前半は講演の記録で、後半は評論や日記や手紙などの短い文章。読んでみると漱石先生は講演の名手である。内容は文明論というより人間論で、人間精神のあり方や芸術に関する話が多い。漱石の小説にも出てくるような内容だが、小説よりストレートで分かりやすい。語り口は控え目ながら、ユーモアもある。かなり面白い。

漱石は日本の開化=西洋化について深く考えている。日本の開化は外からやってきたもので内的必然性がないから、どうしても上滑りになる。無理をすると神経衰弱になる。実際に漱石はそうなった。西洋が強い以上、開化をやめるわけにもいかない。神経衰弱にならない程度に、なるべく内発的に開化していくしかないという。開化の問題は百年経った今でもグローバル化という名前に変わって存在し続けている。

漱石は日本人の自分が英文学を研究する意味についても悩む。自分のやりたいことが判らず悶々と悩んだ末に、「自己本位」というコンセプトを見出し自らの哲学を構築するに至る。そうやって作家になろうと決めるまでの道程を正直に語る。

この本を読み終えると、実際に講演を聴いたような気になり、漱石先生に親しみが湧いた。ところで僕は'80年に大江健三郎、'95年に村上春樹の講演を聴いたことがある。それぞれ別の友人が切符を取って誘ってくれたのだった。大江氏は難しいことを話し、退屈で寝てしまった。村上さんはサービス精神旺盛で、かなり聴衆を笑わせた。講演の雰囲気に関しては、現代日本の文豪二人のうちで漱石に近いのは村上さんの方である。