「日本辺境論」 内田樹 (新潮新書) ― 2009年11月25日
日本はずーっと辺境として存在していたので、日本人の物の考え方は常に「世界はこうこうで、それに対して我々は…」という主体性の無い形になるという話。著者も最初に断っているように、これは新しい説ではなく養老先生や岸田秀先生も言っていることである。僕もお説に大体賛成である。
日本人は昔は中華文明に対して、明治以降は西洋文明に対して辺境人的に対応してきた。その結果、日本語には漢語とカタカナ西洋語が深く浸透している。自分の頭でモノを考えようとした日本人は必ずそのことに気付く。でも日本人の思考の基本は主体性の無い形なので、そういう認識は一般的にならなかった。
小脳論的にいうと、文字が無い古代は小脳優位で、文字を使うようになって大脳優位の時代が始まり、その仕上げの近代化が行き詰ったわけだから、これからは大脳と小脳のバランスが重要になるということになる。著者は武道の話もしているので、話は合う。
似たようなことを経済アナリストの藤原直哉さんが言っている。藤原さんは「起承転結」だという。中華文明に接する前の古代が「起」、中華文明の影響下にある時代が「承」、西洋に学ぶ時代が「転」で、これからはそれらを統合して「結」に至るというわけである。時代区分は藤原説の方が小脳論に近い。内田先生は古代に触れていない。
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