「コーヒーの科学」 旦部幸博2017年07月12日

僕は自分で焙煎したコーヒーを飲んでいる。コーヒーの淹れ方や焙煎の方法についての本をいろいろ読んだが、どれも大概著者の経験則と思い込みばかりで、なんでそうなのかという科学的根拠の乏しい話が多かった。

コーヒーの焙煎や抽出はほぼ化学の実験だから、科学的根拠に基づく定量的なコントロールが大事だ。

この本の著者はコーヒー好きの科学者なので、詳細過ぎるくらい科学的な理屈が書かれていて、僕の長年の疑問がいくつも解けた。

新書本だが、コーヒーに関するあらゆる情報が詰まっている。コーヒー好きの人はこれ一冊だけ持っておけば充分だと思う。

「たとえ世界が終わっても」 橋本治2017年06月11日

タイトルの「世界」は資本主義やグローバリズムのこと。なぜそういうものが終わるのかについて、ヨーロッパと日本の近代史をザックリと語っている。なかなか面白かった。

橋本治は「貿易なんて西洋人の陰謀」と言っている。日本の近代は、大砲の付いた船でやってきた西洋人に「俺のとこの商品を買え」と脅され、近代化しないと欧米に侵略されてしまうというところから始まった。そのとおりだと思う。

資本主義やグローバリズムは飽和によって終わる。そういう世界が終わるのは、陰謀の終焉でもあるから、良いことなんじゃないだろうか。

その後にくるのは、あまり儲からない、トントンで回る経済だ。

「想定外を楽しむ方法」 越前屋俵太2017年05月22日

30年くらい前にテレビの深夜番組で見た、通行人にシャンプーしてしまう俵太は本当に面白かった。ナイトスクープの探偵となり、「巨泉の使えない英語」でアメリカ街頭ロケに行ったり、「ふしぎ発見」のミステリーハンターになったりと活躍していたが、その後、書家俵越山になってからはあまり見かけなくなった。

最近、越前屋俵太としての活動を再開し、この自伝的な本を出したようだ。俵太氏は想定外こそが面白いのだと主張し、実践し続けているわけだが、予め考えたとおりの結果を得るために、仕込みやヤラセで済まそうとするテレビ業界人たちとの闘いが書かれていて、なかなか興味深い。

想定外じゃないと面白くないというのは、「面白さは発見であり、面白いことは予想がつかない」という僕の意見と全く同じだ。

「騎士団長殺し」 村上春樹2017年02月27日

作者の過去の長編小説を全部混ぜて1つの形にまとめたような作品。特に、奥さんと別れてまた戻るまでの主人公の内面的な試練というストーリーの骨格は「ねじまき鳥」で、作品中に登場する絵の題名が小説の題名でもあること、妖精みたいな存在(騎士団長=カーネル・サンダース)が登場すること、誰かと誰かの親子関係の有無が重大問題で、その真偽が未確定なことなどは「カフカ」。

僕にとって、村上作品の最大の謎は、この妖精みたいなものが何を意味しているかだ。過去の期間限定サイトなどで作者は、それが物語の中にだけ存在するものではなく、我々の意識のありようによっては現実に存在を感じられるものだというような説明をしていたと思う。

「騎士団長殺し」を読みながらそのことについて考えていると、騎士団長がイデアの説明をするために左右の脳のことを言い出したので、村上春樹の愛読書「神々の沈黙」(ジュリアン・ジェインズ)が思い浮かんだ。

村上作品に出てくる妖精みたいな存在は、主人公を問題解決に導くわけだから、「神々の沈黙」でいうところの右脳が発する神の声に相当するのではなかろうか。村上春樹は、神とは言わないまでも、困ったときにヒントをくれる妖精ぐらいなら我々の内側にいるということと、その声を聴くための意識のあり方はどんなものなのかを物語として表現しているような気がする。

この小説には、妖精的存在とは別の非現実的なものとして、生き霊も登場する。それについて思い浮かぶのは「雨月物語」(上田秋成)。これは江戸時代に書かれた怪談話で、村上春樹がインタビューなどで好きな物語としてたびたび挙げているもの。「騎士団長殺し」に登場する老いた画家の名字の雨田は雨月物語から来ているのではないか。

「鬼太郎夜話」 水木しげる2017年01月30日

アニメの鬼太郎は正義のヒーローだが、原作的な存在であるこちらの鬼太郎は子どもの姿なのにタバコを吸うし、お金と女性に弱くていい加減なヤツだ。でも地獄に行っても化け物に会っても平気なのがヒーローっぽい。

ストーリーは荒唐無稽で意表を突く展開の怪談話。雑誌「ガロ」連載当時('67~'69)の社会を風刺している。特に念入りにからかわれているのが三島由紀夫で、水木先生は三島由紀夫が何かに取り憑かれていることを見抜いていたとも読める。

「Novel 11、Book 18」 ダーグ・ソールスター(村上春樹訳)2016年11月18日

エリート官僚の人生がだんだん変な方向にそれていって...という話。主人公は自意識過剰の空疎な人格で、エリート官僚にありがちな内面を戯画化しているようにも思える。主人公に共感できないうえ、リアルタイムに描写しているのか過去を振り返っているのか曖昧な語り口の三人称文体が落ち着かない。ずーっと不吉な気分が漂っている。途中で読むのがイヤになり、最後の3割ほどは斜めに読んでしまった。

僕は村上春樹の訳した小説をいろいろ読んだが、面白いと思ったのは「ギャツビー」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「ロング・グッドバイ」だけで、つまり古典的名作の新訳だけということになる。それで、村上翻訳本にはもう付き合わないことにしていたのだが、久しぶりにこれはちょっと面白そうだなと思って読んでみたのだが、やっぱりダメだった。

「セトウツミ」 此元和津也2016年08月28日

娘が友人から借りてきたマンガ。めっちゃ面白いというので読んでみたら、たしかに面白い。何度も声を出して笑ってしまった。

瀬戸と内海という男子高校生ふたりの暇つぶしの会話がほとんどだが、それがよくできた漫才のように面白い。内容も軽い言葉遊びから人生哲学的な議論まで幅広くて、 「この川で暇をつぶすだけのそんな青春があってもええんちゃうか」というウツミの内心の主張にも頷ける。

この漫画の舞台設定は明示されていないが、背景に描かれている景色は大阪府堺市に実在する。あの川辺は旧市街のザビエル公園の裏にあって、歩いて行ける距離には海(=瀬戸内海)がある。川といっても実は江戸時代以前に作られた環濠の名残りで、水の流れはほとんど感じられない。そのことはハッキリ描かれているわけではないが、瀬戸と内海にとっての停滞した時間感覚を暗示しているような気がする。

読んだ後で思い浮かんだのは、まずジャルジャルの漫才。それから村上春樹の「風の歌を聴け」。「風の歌を聴け」は大学生が暇つぶしの会話をする話で、瀬戸内海に近い川辺のバーが舞台だ。内海がときどき出してくる面白い比喩も村上春樹的だし。

「Wind / Pinball」 村上春樹2016年07月18日

「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」の英訳を1冊にまとめた本。

この2冊の英訳は昔、日本人向けに講談社英語文庫で出たが、すぐに絶版になり、海外向けの英訳が無かったのでレア本になっていた。僕は両方持っていたが、アマゾンでそれぞれ4千円くらいで売れた。新版が出たので、今は2千円代に相場が下がっているようだ。

翻訳は、英語文庫のアルフレッド・バーンバウムと違って、テッド・グーセンという人の新訳。本の最初に村上春樹によるイントロダクションが付いている。ジャズ喫茶をやっていた頃に、神宮球場の外野席で突然小説を書こうと思って、深夜のキッチンテーブルで執筆したという例の有名な話など。

日本語版「風の歌を聴け」の最後に付いている「あとがき」がカットされている。あれは主人公と作者を一体化して虚実の境を曖昧にする面白い仕掛けなのにと思ったが、よく考えると、「風の歌」と「ピンボール」の間にあれが挟まるのはよろしくないね。

久しぶりに読むせいか、英語で読むからか、細部のイメージが記憶と違って新鮮だった。

「村上春樹は、むずかしい」 加藤典洋 (岩波新書)2015年12月28日

僕は村上春樹の長編を全部3回以上読んでいるが、どう受けとめたらいいのか判らないことも多い。それで村上作品に関する評論本もたくさん読んだのだけど、ちゃんと本質を捉えているなと思えて説得力があったのは、加藤典洋の「イエローページ・村上春樹」と「村上春樹の短編を英語で読む」だけだった。

この本は新書だから、「イエローページ」や「英語で読む」に比べると分量は少ないが、そうかナルホドと頷ける内容だった。

東アジアで村上春樹の人気が高いのは知っていたが、インテリは馬鹿にしているというのは知らなかった。しかし、日本でもちょっと前までそうだったわけで、著者はそういうインテリの評価を覆そうとしてきた。この本はそこに話を絞って、村上作品そのものの評論よりも、村上作品の文学的・社会的な意義についてハッキリさせようとしている。

僕は著者の話に納得したが、個人の意識のあり方と社会のあり方が連動しているという認識の無い人にはピンと来ないかもしれない。

「猫と庄造と二人のおんな」 谷崎潤一郎 (新潮文庫)2015年11月01日

前に読んだ「細雪」が面白いうえに、僕が育った阪神間が舞台で親しみやすかったので、また谷崎潤一郎を読んでみた。

猫好きのダメ男と、元の妻と、新しく妻の座に収まろうとする女のごたごた話。そんな話が面白いのかというと、さすが文豪、テンポの良い文体につられて飽きずに読めた。心理描写が細かいので、それだけだと陰鬱になるところだが、ストーリーは喜劇なのでうまくバランスが取れている。

例によって芦屋や六甲あたりの話で、甲子園の野球という言葉も出てくるが、これは高校野球(当時は中等学校)のことらしい。この小説が発表された1936年にプロ野球が始まったのだ。