記憶力の衰え2009年08月06日

40代後半になって記憶力の低下が著しい。新しいことを覚えるのも難しいが、それより昔覚えていたことを忘れつつあるのが問題である。同年代の友人たちもみんなその症状が出ている。会話をしていると、しょっちゅう誰かが「アレ何て言うんやったっけ?」とか言い出して話が停滞する。

大抵の場合は「うーん」と唸っているうちに誰かがちゃんと思い出すし、それでみんなが「そうそう、それそれ」と納得するので、脳のどこかにちゃんと記憶が残っていることは間違いない。でも、その記憶に素早くアクセスできなくなりつつあるのだ。

人や物の名前が出てこないのはまだ良いとして、もっと問題なのは「誰ソレが何を言った」とか「自分が何かをした」というエピソード記憶もやや曖昧になりつつあることだ。10年以上前の話なんかだと、自分がしたことと、自分が想像しただけのイメージと、人から聞いた話が混じり始めている。自分というものが変容しつつある。

今のところ、何かを間違えていることに自分で気が付いているわけだが、そのうちに何でも自分の都合の良いように記憶を作り変えてしまって平気になるのだろうか。

他方、自転車に乗るとか楽器を弾くとか、身体で覚える記憶は(体力的な問題は別にして)今のところ変化が無さそうである。光学機器の設計という僕の仕事は、どちらかというと身体で覚える方の能力を使うので、もうしばらくは大丈夫であるような気がする。

設計をしていると細かい問題点がいっぱい出てくるが、それが覚えられないのは昔からである。だから若い頃からメモを取りまくっている。何でもメモを取り、取ったメモをしょっちゅう読み返す習慣は失わないようにしたい。

宇宙2009年08月01日

以前、僕の友人が「スペースシャトルが行っているところは、高々400キロ上空であって、宇宙というほどではない」と主張していた。彼は「月くらいまで行けば宇宙だ、アポロはすごかった」と言う。確かに38万キロ彼方の月まで行くことに比べれば、400キロは近い。なるほど。

宇宙ステーションはなぜ400キロ上空を飛んでいるのだろうか。もう少し低いと空気があるので空気抵抗でステーションが落ちてしまうし、もう少し高いと高エネルギー粒子が飛びかっていて危険、ということらしい。つまり400キロより遠くは危険な粒子が飛びかう真空の宇宙空間で、それより近くは空気に守られた安全な地上なわけである。400キロ上空は真空だから宇宙。

仮に400キロの高さのビルを建てたとしたら、最上階あたりを宇宙ステーションが秒速8キロくらいで通り過ぎる。ビルの屋上に立ってみれば無重力ではなく地上の9割程度の重力を感じるが、地上と違ってほぼ真空である。

国際宇宙ステーションに長期滞在した若田さんが、目薬を差したり、水と油を混ぜたり、縄跳びをしたり、いろいろ面白い実験をしていた。宇宙では無重力なのでこうなります、というわけだが、宇宙の特徴は無重力より真空ではなかろうか。

真空に近い状態は地上でも真空ポンプを使って作り出せるが、無重力はそうは行かない。飛行機の急降下で数十秒がせいぜいらしい。だから宇宙ステーションの売り物は無重力になるのだろう。

年越し2008年01月03日

僕は1月1日は冬至に合わせるべきだと思う。今日からだんだん日が長くなっていくという日を1月1日にすれば、本当に年が明けた感じがするではないか。一年の長さは地球が太陽を回る周期に合わせて閏年まで設定してわりと厳密に決められているのに、一年の始まりは太陽の運行を基準としていない。中途半端である。

それはそうと、我が家ではなぜか毎年大晦日にちょっと贅沢をする。今回は近所のスーパーで佐賀牛のステーキ肉と紋甲イカとホタテ貝柱を買ってきて、コタツでコンボクッカーのスキレット(鋳物のフライパン)で焼いて食べた。旨かった。外食するよりかなり安いし。

そうやって食事をしながら久しぶりに紅白歌合戦を見たら、意外に楽しめた。NHKも開き直ったのか肩の力が抜けた演出で、カメラワークや音のバランスも良かった。結局半分くらい見た。その後、スカパーでキヨシローのカウントダウンを見ながらニシンそばを食べて寝た。

英語の表記2007年11月08日

映画「マトリックス」を作ったWachowski兄弟の日本語表記は「ウォシャウスキー」が定着しているが、本当はどう発音するのだろうか。村上春樹さんがたしか「ワーショフスキー」と書いていて、アメリカ暮らしの長い村上春樹が言うのだからアチラでの発音はそういう感じなのかなとも思った。両親はポーランド系だということなので、ポーランド語でそういう具合に発音するのかもしれない。

実際にアメリカではどう発音されているのだろうか。「ウォシャウスキー」も「ワーショフスキー」も何となく違うような気がする。こういうときはやはりググッてみるしかない。「Wachowski Pronounce」で検索してみると、ちゃんと発音がわかるサイトが見付かった。プレイボタンを押して聴いてみると「ウォチャウスキー」かな。発音表記は「wuh-CHOW-skee」。大文字のところを強く発音するわけですね。

さらにいうなら、映画のセリフを聴くと「マトリックス」は「メイトリクス」の方が近いし、主人公の名前「ネオ」は「ニーオ」と聴こえる。「マトリックス」や「ネオ」は英語をあくまでもローマ字的に読んでいるわけである。外国語をカタカナで正確に表記するのはムリだが、できるだけ原語に近いカタカナを当てた方がいいんじゃないかと僕は思う。だからといって今さら映画「メイトリクス」と書いても通じないから、定着している表記には従うことにしている。Wachowskiもウォシャウスキーと書くしかない。

小脳仮説2007年08月06日

「運動のみならず思考過程においても小脳が重要な役割を果たす」という説を小脳仮説というらしい。小脳論をお読みいただいているみなさまはご承知のとおり、これは僕が10年前から言っていることである。その小脳仮説を理化学研究所と富士通が共同で検証するそうだ。プロ棋士が将棋を指している時の小脳の活動を測定するのだという(理研のプレスリリース)。面白そうだ。

小脳が運動だけでなく(無意識的な)思考に関わるという説は小脳研究の権威である伊藤正男先生のオリジナルである。僕が10年前に「小脳論」と称する文章を書いた時にも伊藤正男著「脳と心を考える」を参考文献に挙げている。でも、僕は伊藤先生とは独立にその仮説に辿りついていたのである。そのことは一応はっきりさせておきたい。

僕は20年間くらい前から無意識的思考の重要性について考えていた。そのうちに「運動技能の記憶は小脳に蓄えられる」という研究が報道されるようになった。そこで僕は以下のように考えた。

1、運動ができるようになるのは「無意識にできるようになる」ということなのだから、小脳の記憶は無意識的な記憶であるといえるだろう。

2、運動だけではなく思考についても技能的な要素はあり、思考が身に付いて無意識的思考となることもある。

3、だとすれば無意識的思考が蓄えられるのも小脳なのではないか。

そういうわけで、思考と行動は小脳において無意識的に通底しているというのが小脳論の前提である。小脳論はそこから先の話をしているわけだから、実証研究がもっとどんどん進んでくれたら嬉しい。そうなれば僕の考えもどんどん脳科学的に裏付けられていく…かもしれない。

食品問題2007年08月03日

最近の中国食品問題で僕がヤラレタと思ったのは、給水器用のミネラルウォーターの半分が偽物で水道水だったという件である。出張で上海に6週間滞在した時、水道の水が汚いので歯を磨くのにも給水器の水を使っていたのだが、あれは五分五分の確率で水道水だったのか。

最初「水道水を詰めてるんじゃないか?」と疑うには疑ってみたのである。でも交換用の新品のボトルを見るときれいなシールで封がしてあったので、まあ大丈夫だろうと思ったのだった。しかし偽物はそのシールも偽造しているのだという。僕の考えは甘かった。

上海で食べたものの中で一番旨かったのは、香港式飲茶チェーンのシュウマイである。このシュウマイの特徴は肉が荒挽きであることで、以来僕はシュウマイは荒挽き肉に限ると思い込んでいる。最近我が家では食材を購入するのに生協の宅配を利用しているのだが、食材のリストに「あらびき肉しゅうまい(冷凍)」というのを見つけた時にすぐ注文してしまった。上海で食べたシュウマイとは比べものにならないが、おでんに入れたらまあまあだったので、その後もう一度注文した。

先月、生協から宅配された荷物に「お知らせ」の紙が入っていて、「あらびき肉しゅうまい」の代金298円×2が返金されていた。材料にミートホープ社のミンチが使われていたのだという。ヤラレタ。もうどこから弾が飛んでくるかわからない。

中国産には何が入っているか不安だし、日本産の加工食品も怪しい。なるべく素性の分かる食材を買って、自分で一から料理した方が良さそうだ。そうするとお金も手間も掛かるが、あんまり安さや便利さばかり追求した結果が今の状態なのかなとも思う。それにしても、ただでさえ毎晩のオカズを考えるのは大変なのに、悩みのタネを増やさないで欲しいものである。食品業界、ええかげんにせえよと言いたい。

オリコン訴訟2007年01月22日

オリコンのヒットチャートに疑いを挟む雑誌記事に関連して、オリコンがフリージャーナリストの烏賀陽弘道さんを相手に訴訟を起こしている。この訴訟は事実を明らかにするためというよりも言論を封じるために起こされており(オリコン側がそう認めている)、当ブログは烏賀陽(うがや)さんを支持いたします。詳しくは烏賀陽ジャーナルをご覧下さい。

なので...2005年11月09日

最近、「なので」という接続詞が流行りつつある。例えば「今期わが社は赤字になりそうです。なので、冬のボーナスを一割カットします」という風に使う。会社の同僚に何人かこの「なので」をよく使う人がいるし、この前テレビのトーク番組でもアナウンサーが言っていたし、新聞のコラムでも見た。

そもそも「なので」という接続詞は無い。「ナニナニなので」という場合の「なので」は、助動詞「だ」の連体形「な」+接続助詞「ので」である。なので、本来は「今期わが社は赤字になりそうなので冬のボーナスを一割カットします」というように使うのが正しい。この文を二つに分けるなら「今期わが社は赤字になりそうです。だから、冬のボーナスを一割カットします」という風に言うこともできる。

なんで「なので」が使われるのだろう。「なので」は文章を二つに分けたにもかかわらず、何となく繋がった感じを出すために使われているような気がする。でも、なぜそういう感じを出そうとするのかはよく分からない。「だから」とか「それで」、「したがって」というような接続詞を避けたい理由があるのかもしれない。誰かが「なので」と言うのを聞くたびに、僕は反射的にその理由を考えてしまうのである。

なお、ボーナスの話はフィクションです。