村上春樹と庄司薫2006年10月08日

最近どこかで「村上春樹の『風の歌を聴け』に出てくる架空の作家ハートフィールドは庄司薫である」という説が紹介されているのを読んだ。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」がサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を下敷きにしていて、村上春樹は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳もしているから、まあライ麦繋がりという線は無くもないが、ちょっと苦しいような気がする。

「ハートフィールド」の正体については諸説あって、「太宰治+三島由紀夫だ」という人もいる(佐藤幹夫「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。」PHP新書)。そういえば、「赤頭巾ちゃん」の帯の紹介文を三島由紀夫が書いている。

どうも最近、世界的に評価の高まっている村上春樹を、日本文学の真ん中へんの流れに位置づけようという動きが盛んになりつつあるのかもしれないが、ハートフィールドはラブクラフト、R.E.ハワード、ヴォネガットあたりを混ぜた架空の存在だと村上春樹本人が言っている。

でも、あえてこじつければ、「赤頭巾ちゃん」と「風の歌を聴け」には共通点がある。まず第一に「あとがき」が付いているということである。そして、そのあとがきは、小説のフィクション世界と現実の境を曖昧にするために書かれている。

本来、あとがきは虚構の世界を語り終えた作者が現実の世界で書くという体裁のものである。しかし、「赤頭巾ちゃん」と「風の歌を聴け」のあとがきは、虚構の世界の語り手が書いているのだ。

「赤頭巾ちゃん」では語り手が作者のペンネームと同じ名前であるという設定の時点で既にフィクションと現実が交錯しているが、さらに「あとがき」で、山手線の駅近くに住んでいる自分を探しに来ないで欲しいなどという。

「風の歌を聴け」の方は、あとがきでハートフィールドの作品に巡り合ったいきさつやら、墓参りに行った話をもっともらしく語り、参考文献を挙げるが、これが全てフィクションであるにもかかわらず、最後に日付と自分の名前を記すことで現実であるかのように見せている。

つまり、どちらも「あとがき」をフィクション界と現実界の通路として配置している。

「赤頭巾ちゃん」のあとがきで主人公は、自分は兄が書いた小説の主人公であるような気もすると言う。「風の歌を聴け」の方はカバーのイラストに「BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMAS」と書いてあるが、これはこの小説が主人公の友人によって書かれたものであることを暗示している。つまり、「赤頭巾ちゃん」も「風の歌を聴け」も主人公に非常に近い登場人物が書いた小説であるというややこしい設定が施されているのだ。

「あとがき」によってフィクション界と現実界を繋ぐことと、登場人物がが書いた小説であるという自己言及的構造を用いることの目的は、語り手の視点をあいまいにするためである。

そういえば庄司薫って今どうしてるんだろうと思い、ググッてみたところ、ご本人の近況は不明だが、「赤頭巾ちゃん」シリーズの「ぼくの大好きな青髭」は雑誌連載時よりだいぶ短くてスジもちょっと違うところがあるらしい、ということを知った。そしてありがたいことに、その雑誌連載バージョンをネット上で読むことができる(「紙魚の筺 庄司薫」で検索)。ZoomBookというソフトをダウンロードする必要があって、ページをめくる時の読み込みにちょっと時間がかかるが、まあ読める。

しかも、同じ場所に村上春樹の単行本化されていない作品もあった。 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のもとになった「街と、その不確かな壁」まである。村上さんはこの作品について「研究者以外は読む必要ないでしょう」みたいなことを言っていたけど、前から興味があったので読めるのは嬉しい。



  → 村上春樹の文章論

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