「錯覚する脳」 前野隆司 ― 2007年09月21日
「おいしい」も「痛い」も幻想だった、というのが副題で、帯には「意識のクオリアも五感もすべては錯覚だった!!」と書いてある。だいたい僕の考えていることと同じである。例によって映画「マトリックス」の世界に言及している。「マトリックス」的世界観は21世紀の認識論の基本だ。
全ては幻想であるということを軽い文体で科学的にわかり易く書いていて面白かった。僕の考え方と似ているところも多い。著者はロボットの研究者で、工学的観点から認識論を考えているうちに「全ては幻想だ」という結論に至ったようだ。そういえば僕もロボットの研究者になりたくて大学の機械学科に行ったのだった。
全てが幻想であるというのは著者の発見ではなくて、もっと昔にブッダが言っている。著者も今では釈迦の悟りが理解できるといい、人生論、幸福論を語り始める。言ってることはだいたいそのとおりだと思うのだが、何かちょっと短絡的なところがあるような気もする。
全ては幻想であるということを軽い文体で科学的にわかり易く書いていて面白かった。僕の考え方と似ているところも多い。著者はロボットの研究者で、工学的観点から認識論を考えているうちに「全ては幻想だ」という結論に至ったようだ。そういえば僕もロボットの研究者になりたくて大学の機械学科に行ったのだった。
全てが幻想であるというのは著者の発見ではなくて、もっと昔にブッダが言っている。著者も今では釈迦の悟りが理解できるといい、人生論、幸福論を語り始める。言ってることはだいたいそのとおりだと思うのだが、何かちょっと短絡的なところがあるような気もする。
コメント
_ hijk ― 2007-09-22 07:26
_ ぶんよう ― 2007-09-22 16:09
「私が私であるという感覚」が不可思議であるということには賛成ですが、その感覚はどこから来たんでしょうか。私という感覚は、幼児と周囲の人間との言語的相互作用の界面として成立するのではないか。それ以外のいろいろな側面が「私」に関連付けられずに残っているのではないか。
私という感覚に対して真正面から向き合うのは大切ですが、それだけじゃなくて「私じゃないという感覚」にも目を向けた方がいいのではないか、と僕は思います。私という感覚の不可思議さの裏側に非意識的自己の不可思議さもあるわけです。この本に対する僕の不満はhijkさんとは逆?で、「非意識的自己」を軽く見ているような気がするところです。
幻想か否かは「それによって物事がうまくいくかどうか」によって測ることができます。世界モデルとしての妥当性ですね。一般的には「私」幻想はいろいろな弊害を生むと思います。「非意識的自己(さらには他者)も含む私」という拡張モデルを提案しているわけです。
私という感覚に対して真正面から向き合うのは大切ですが、それだけじゃなくて「私じゃないという感覚」にも目を向けた方がいいのではないか、と僕は思います。私という感覚の不可思議さの裏側に非意識的自己の不可思議さもあるわけです。この本に対する僕の不満はhijkさんとは逆?で、「非意識的自己」を軽く見ているような気がするところです。
幻想か否かは「それによって物事がうまくいくかどうか」によって測ることができます。世界モデルとしての妥当性ですね。一般的には「私」幻想はいろいろな弊害を生むと思います。「非意識的自己(さらには他者)も含む私」という拡張モデルを提案しているわけです。
_ hijk ― 2007-09-22 18:03
そうなんですよね。何かを軽く見ている気がする
という点では少なくとも一致しているわけで、
それは「身体性」とか「生命性」に関する希薄さ、
なのではないかという気がします。
私個人は「意識は“無意識という氷山”の一角」
「私が私であるという感覚の不可思議性の基盤は
意識層よりも遥かに重厚で複雑な無意識層にある」
という考え方を持っており、大脳だけでなく小脳や
身体性までを含んだ「自己」が大事だと思っています。
また、「愛」というものを、「自己と見做せる範囲を
他者にまで広げていきたいと願う感情」と定義し、
「愛」を通して、情報としての世界モデルが洗練化
されていくのであろう、とも考えています。
ですから、ぶんよう様が仰る「非意識的自己」とか
「“私”の拡張モデル」に、私は凄く共感できる気が
するのですが、一方「非意識的自己」という言葉には
(敢えて“無意識的自己”と言わない事からも)
もっと色々な意味が篭められているのかな、とも
推察します。(ちなみに、『小脳論』のどこかに
登場する用語なのでしょうか?)
いずれにせよ、ぶんよう様としては、「意識」という
現象そのものには、あまり重きを置いていないので、
「意識なんてものは所詮は錯覚」という結論にも、
あまり違和感は無い、ってことなんですね。
で、私個人は、生命や無意識層の重厚さや複雑さを
十分認めた(リスペクトした)上で…という前提条件
つきで、進化の果てに勝ち得た、この「意識」という
結晶を、非常に大事に思っているのです。
ぶんよう様と私は、同じようなことを主張しているのか、
でもやっぱり大事なところで着眼点は違っているのか。
どうなんでしょう。
という点では少なくとも一致しているわけで、
それは「身体性」とか「生命性」に関する希薄さ、
なのではないかという気がします。
私個人は「意識は“無意識という氷山”の一角」
「私が私であるという感覚の不可思議性の基盤は
意識層よりも遥かに重厚で複雑な無意識層にある」
という考え方を持っており、大脳だけでなく小脳や
身体性までを含んだ「自己」が大事だと思っています。
また、「愛」というものを、「自己と見做せる範囲を
他者にまで広げていきたいと願う感情」と定義し、
「愛」を通して、情報としての世界モデルが洗練化
されていくのであろう、とも考えています。
ですから、ぶんよう様が仰る「非意識的自己」とか
「“私”の拡張モデル」に、私は凄く共感できる気が
するのですが、一方「非意識的自己」という言葉には
(敢えて“無意識的自己”と言わない事からも)
もっと色々な意味が篭められているのかな、とも
推察します。(ちなみに、『小脳論』のどこかに
登場する用語なのでしょうか?)
いずれにせよ、ぶんよう様としては、「意識」という
現象そのものには、あまり重きを置いていないので、
「意識なんてものは所詮は錯覚」という結論にも、
あまり違和感は無い、ってことなんですね。
で、私個人は、生命や無意識層の重厚さや複雑さを
十分認めた(リスペクトした)上で…という前提条件
つきで、進化の果てに勝ち得た、この「意識」という
結晶を、非常に大事に思っているのです。
ぶんよう様と私は、同じようなことを主張しているのか、
でもやっぱり大事なところで着眼点は違っているのか。
どうなんでしょう。
_ ぶんよう ― 2007-09-23 13:10
なるほど、hijkさんと僕の世界モデルはだいたい一致してるわけですね。それから、前野隆司氏が身体性を軽く見ているんじゃないかという点も同感です。
意識という結晶はかなり不可思議で面白いものだとは思うのですが、僕があまり重きをおかないのは、意識というものがあまり役に立たないからです。オレは今から意識的に人差し指を曲げるぞ、というぐらいのことなら実現できますが、ピアノでバッハのインヴェンションを弾くぞと思っても、急にはできない。無意識に弾けるようになるまで練習しないと無理なわけです。
そういう出力だけじゃなくて、五感への入力についても意識はいろいろ邪魔をするし。意識は功罪両方あるので無条件に賞賛できるものではないと思うのです。もちろん非意識的な部分にも功罪両方あるわけで、全体としてどういう在り方が望ましいか慎重に考える必要があると考えます。
「小脳論」を書いていた当時は「無意識」と表現していたと思うのですが、その後「非意識的」に変わってきました。「意識-無意識」だと「灯りの点いた部屋と暗い部屋」みたいなのに対して、「意識-非意識」の方が「家の中と外」みたいなイメージになりませんか。
意識という結晶はかなり不可思議で面白いものだとは思うのですが、僕があまり重きをおかないのは、意識というものがあまり役に立たないからです。オレは今から意識的に人差し指を曲げるぞ、というぐらいのことなら実現できますが、ピアノでバッハのインヴェンションを弾くぞと思っても、急にはできない。無意識に弾けるようになるまで練習しないと無理なわけです。
そういう出力だけじゃなくて、五感への入力についても意識はいろいろ邪魔をするし。意識は功罪両方あるので無条件に賞賛できるものではないと思うのです。もちろん非意識的な部分にも功罪両方あるわけで、全体としてどういう在り方が望ましいか慎重に考える必要があると考えます。
「小脳論」を書いていた当時は「無意識」と表現していたと思うのですが、その後「非意識的」に変わってきました。「意識-無意識」だと「灯りの点いた部屋と暗い部屋」みたいなのに対して、「意識-非意識」の方が「家の中と外」みたいなイメージになりませんか。
_ hijk ― 2007-09-24 01:02
なんとか分かって来ました。仰る通り、世界モデルは
ほぼ一致していますが、価値の置き方(分布)が
だいぶ異なっているのだと思います。意識-非意識の
全体まで視野に入れた上で、私はそれでも「意識」に
興味があり、ぶんよう様は、やはり泰然自若として
「全体のバランスが大事」と仰るわけですね。
ぶんよう様から見ると、「意識」に必要以上に拘って
いるという意味においては、私と前野隆司氏は
同じように見えるのかも知れません。納得です。
『脳内世界・情報世界としての自己だけでなく、
生命性・身体性が大事』、と言っておきながら、
それでも意識という結晶が問答無用で大事、
と言い張る私の論拠も興味本位で不誠実なのかも。
「意識があまり役に立たない」「功罪両方ある」
というのも、実にしっくりスンナリ理解できます。
「意識が大事なんだ!」とガムシャラに主張するより、
進化の過程において、余計かも知れない「意識」を
持った方が抽象性や計画性の運用において、
非意識的存在より51:49くらいの比率で有利に働いた
という程度に考えるのが妥当なのかも知れません。
もう少し慎重に考えて、またご意見を伺いたくなったら
お邪魔致します。やはり、ぶんよう様の胸をお借りして
良かったです。ありがとうございました!
ほぼ一致していますが、価値の置き方(分布)が
だいぶ異なっているのだと思います。意識-非意識の
全体まで視野に入れた上で、私はそれでも「意識」に
興味があり、ぶんよう様は、やはり泰然自若として
「全体のバランスが大事」と仰るわけですね。
ぶんよう様から見ると、「意識」に必要以上に拘って
いるという意味においては、私と前野隆司氏は
同じように見えるのかも知れません。納得です。
『脳内世界・情報世界としての自己だけでなく、
生命性・身体性が大事』、と言っておきながら、
それでも意識という結晶が問答無用で大事、
と言い張る私の論拠も興味本位で不誠実なのかも。
「意識があまり役に立たない」「功罪両方ある」
というのも、実にしっくりスンナリ理解できます。
「意識が大事なんだ!」とガムシャラに主張するより、
進化の過程において、余計かも知れない「意識」を
持った方が抽象性や計画性の運用において、
非意識的存在より51:49くらいの比率で有利に働いた
という程度に考えるのが妥当なのかも知れません。
もう少し慎重に考えて、またご意見を伺いたくなったら
お邪魔致します。やはり、ぶんよう様の胸をお借りして
良かったです。ありがとうございました!
_ ぶんよう ― 2007-09-24 11:10
どういたしまして! またご意見お聞かせ下さい。
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私、ぶんよう様のご意見を是非お伺いしたいんです。
「生命は、驚異に値する超複雑な、単なる物理装置」
という方向性で突き詰め、意識は幻想・錯覚だと
言い切るのは、ある意味、誠実で正しいと思うんです。
「私たちはゾンビ(機械)である」と言えると思うんです。
それはそれで首尾一貫した“一つの切り口”だと。
でも。
私にとって何よりも一番大事な、この、『私が私で
ある』という感覚を錯覚とか幻想として片付けられても
そういう見方、切り口があってもいいというだけで、
『私』の大切さ、不可思議さは、一向に説明されて
いない。無理にそこを回避しているようにすら見える。
そもそも私達の意識を「錯覚」「幻想」と形容するなら、
「じゃあ、錯覚や幻想でないリアルって何ですか」
「それともこの世の中全部が錯覚や幻想なんですか」
と問いたくなる。(筆者やブッダの立場は、世の中
全てが幻想だ、ってことなんですよね。でも、幻想で
ないものが無いなら、これこそが現実なのでは。)
生命機械論的な「慎ましい、正しい説明の一つ」
でしか無いクセに、一番大事な『私』に、「幻想」とか
「錯覚」のような否定的な形容を使うのが非常に気に
入らないのです。一体どんな絶対性を基準に『私』を
「まぼろし」だとか「錯誤」呼ばわりするのだろう。
四六時中付き纏って離れない、この『私』という感覚
に、真正面から向き合い続けるのを諦めて、結局は
“神の視点”に逃げた、というようにも読めるのです。
そんなわけで、私は、氏の主張は、数多ある正しい
説明のうちの一つであるとは認めても、その結論の
ニュアンスがいたく気に入らないのですが、
ぶんよう様はどのようにお感じになりますか。