ハロウィン ― 2009年11月01日
数日前、夕食にカボチャの煮っ転がしがあったので、「ハッピーハロウィーン」と言いながら娘のお皿によそったら「それは違う」と答えた。ランタンを作るためにくり抜いたカボチャは食べないのかな。
昨日、夕食が終わった頃に玄関の呼び出し音がピンポーンと鳴った。娘の友達らしい。娘と奥さんが出てみると、魔女やら何やらの仮装をした女の子4人が「トリックオアトリート!」と叫んだ。慌ててお菓子をかき集めて渡すと、お返しにお菓子の入った袋をくれた。友達の家は1キロくらい離れている。だいぶあっちこっち回ったのだろう。
奥さんと、「人生で初めてトリックオアトリートを体験したなあ」と話していると、「とりっく! おあ! とりーーと!」という幼児たちの声が聴こえた。数分おきに何度も叫んでいる。あれがウチに来ても、もうお菓子無いよと心配したが、ウチには来なかった。窓から見てみると、近所のチビたちが集まっていて、親が写真を撮っている。クリスマス用の電飾を点灯している家もある。奥さんに報告すると「欧米か!」と答えた。
「Are You Experienced?」 ジミ・ヘンドリックス ― 2009年11月02日
ジミヘンのデビュー作。ジャズ・ロック、ブルース、ソウル、その他エレキでできることは何でもやります。何をやっても全部ジミヘン。この人は最初から完成されていたんだなあ。ビートルズでもマイルス・デイヴィスでも初めのうちはポップなことをやって、その後だんだんアヴァンギャルドな方向に進化していったわけだが、ジミヘンはいきなりポップかつアヴァンギャルドだった。凄いなあ。17曲1時間堪能できる。エレキギターの音楽はジミヘンだけ聴いておけばいいという気がしてくる。
今時ジミヘンを熱心に聴いている人間も少ないだろうと思ったが、この前フィギュア・スケートの小塚君が「ボールド・アズ・ラブ」で滑っていた。かと思えば、ソニーがジミヘンの全曲の権利を獲得して来年再発プロジェクトをやるというニュースもある。
今時ジミヘンを熱心に聴いている人間も少ないだろうと思ったが、この前フィギュア・スケートの小塚君が「ボールド・アズ・ラブ」で滑っていた。かと思えば、ソニーがジミヘンの全曲の権利を獲得して来年再発プロジェクトをやるというニュースもある。
「素晴らしきラジオ体操」 高橋秀実 (小学館文庫) ― 2009年11月03日
僕も子どもの頃、夏休みには早起きして公園でラジオ体操をした。小学校の途中で引っ越した先では、夏休みのラジオ体操を8時にやることに違和感を覚えた。8時だとラジオの放送は無いから、ポータブルプレイヤーでレコードをかけるのである。何となくニセ物のラジオ体操をしているような気がした。
それ以後はラジオ体操とは無縁に暮らしていたのだが、うちの奥さんがラジオ体操好きで、僕は一時期、朝起こされてテレビのラジオ体操に付き合わされた。そのおかげで朝寝坊人から早起き人に改造されたのである。奥さんはラジオ体操の音声をiPodに入れていて、会社の同僚と昼休みに会議室で体操していたこともある。知らないうちに僕の携帯にもその音声ファイルが入れられていた。おかげで、いつでも気が向いたときにラジオ体操ができる。
さて、そのラジオ体操というやつはどこから来たのか。この本はラジオ体操の起源から現状までを綿密に取材した話。ラジオ体操は、逓信省の簡易保険事業の収支改善のために、逓信省の役人が役員を務める日本放送協会を使って体操を普及し、慢性病を減らして死亡率を下げようとしたのが起源である。さらにそのモデルはアメリカにあった。
著者は朝の公園を巡ってラジオ体操に参加する。ラジオ体操人になぜラジオ体操をするのかと問うと大概「ラジオ体操は毎日するものだから」と答えるそうである。他にもいろいろ面白いことが書いてあった。
それ以後はラジオ体操とは無縁に暮らしていたのだが、うちの奥さんがラジオ体操好きで、僕は一時期、朝起こされてテレビのラジオ体操に付き合わされた。そのおかげで朝寝坊人から早起き人に改造されたのである。奥さんはラジオ体操の音声をiPodに入れていて、会社の同僚と昼休みに会議室で体操していたこともある。知らないうちに僕の携帯にもその音声ファイルが入れられていた。おかげで、いつでも気が向いたときにラジオ体操ができる。
さて、そのラジオ体操というやつはどこから来たのか。この本はラジオ体操の起源から現状までを綿密に取材した話。ラジオ体操は、逓信省の簡易保険事業の収支改善のために、逓信省の役人が役員を務める日本放送協会を使って体操を普及し、慢性病を減らして死亡率を下げようとしたのが起源である。さらにそのモデルはアメリカにあった。
著者は朝の公園を巡ってラジオ体操に参加する。ラジオ体操人になぜラジオ体操をするのかと問うと大概「ラジオ体操は毎日するものだから」と答えるそうである。他にもいろいろ面白いことが書いてあった。
「trick & tweet」 コトリンゴ ― 2009年11月07日
これは傑作。
デビュー作は打ち込みポップで、2作目では生楽器の分量が多くなり、今回は生楽器主体になった。今まではジャズとクラシックの要素が感じられたが、エレキギターを使うようになってロックっぽい雰囲気も加わった。イメージ豊かなサウンドであることは変わらず、できあがった音楽の品質はますます良くなっている。ジャズもクラシックもロックもコンピュータ・ミュージックも、コトリンゴのフワフワ声を中心とするポップに統合されてしまった。
作詞、作曲、編曲、歌、演奏の全てに才能が感じられる。色々な才能があるということではなくて、「音楽」という一つの才能を色々な形で表すための努力を積み重ねた結果だろうと思う。しかし、その核にある才能は天性のものであるような気がする。天才と努力によって創造的でありながらポップな表現に到達しているのではないか。
この人の音楽は色々な意味で良くできているが、特に優れているのは編曲だ。音の組み合わせ方が立体的かつストーリー性が感じられて面白い。ジャンルやフォーマットに囚われず曲ごとに違うアプローチで音を描いていて、しかも14曲もあるので内容が膨大である。数回聴いたくらいでは全然消化できず、20回くらい聴いてやっと全貌を把握しつつある。聴けば聴くほど良さが分かる。
→ コトリンゴに関する記事
デビュー作は打ち込みポップで、2作目では生楽器の分量が多くなり、今回は生楽器主体になった。今まではジャズとクラシックの要素が感じられたが、エレキギターを使うようになってロックっぽい雰囲気も加わった。イメージ豊かなサウンドであることは変わらず、できあがった音楽の品質はますます良くなっている。ジャズもクラシックもロックもコンピュータ・ミュージックも、コトリンゴのフワフワ声を中心とするポップに統合されてしまった。
作詞、作曲、編曲、歌、演奏の全てに才能が感じられる。色々な才能があるということではなくて、「音楽」という一つの才能を色々な形で表すための努力を積み重ねた結果だろうと思う。しかし、その核にある才能は天性のものであるような気がする。天才と努力によって創造的でありながらポップな表現に到達しているのではないか。
この人の音楽は色々な意味で良くできているが、特に優れているのは編曲だ。音の組み合わせ方が立体的かつストーリー性が感じられて面白い。ジャンルやフォーマットに囚われず曲ごとに違うアプローチで音を描いていて、しかも14曲もあるので内容が膨大である。数回聴いたくらいでは全然消化できず、20回くらい聴いてやっと全貌を把握しつつある。聴けば聴くほど良さが分かる。
→ コトリンゴに関する記事
「Electric Ladyland」 ジミ・ヘンドリックス ― 2009年11月12日
ジミヘンの3作目。ジミヘンのオリジナルアルバムはどれも良い。「Crosstown Trafic」という曲は最近どこかで聞いたことがあると思ったら、車のコマーシャルで使われていた。んー、やっぱりジミヘン再評価の機運は高まりつつあるのか?
「All Along The Watchtower」はツェッペリンの「天国への階段」にそっくりだなあ。調べてみると、このアルバムは'68年発表で「天国への階段」は'71年である。ツェッペリンが真似したのかな。さらにググると、「天国への階段」のイントロはスピリットというバンドの「Taurus」という曲にインスパイアされたとジミー・ペイジが言っている、という情報があった。そのスピリットのランディー・カリフォルニアというギタリストはデビュー前のジミヘンのバンドにいたのだそうだ。なんか話が捩れて閉じてしまった。
「All Along The Watchtower」はツェッペリンの「天国への階段」にそっくりだなあ。調べてみると、このアルバムは'68年発表で「天国への階段」は'71年である。ツェッペリンが真似したのかな。さらにググると、「天国への階段」のイントロはスピリットというバンドの「Taurus」という曲にインスパイアされたとジミー・ペイジが言っている、という情報があった。そのスピリットのランディー・カリフォルニアというギタリストはデビュー前のジミヘンのバンドにいたのだそうだ。なんか話が捩れて閉じてしまった。
「音楽の聴き方」 岡田暁生 (中公新書) ― 2009年11月13日
音楽の聴き方は自由だし、クラシック音楽の聴き方に限った話をしたいわけではないと著者はいう。ほうほう、と思って読んでみると、でも今のポピュラー音楽の楽器や技法も19世紀西洋由来なんだから、やっぱり音楽を聴くにはクラシック音楽の文法みたいなものを勉強した方が良いという話になる。
著者が大学の授業などで、セロニアス・モンクの曲をクラシックのピアニストが弾いているCDとモンク本人のCDを聴かせると、全員がモンクのドタバダした演奏を気に入るのだそうだ。しかし例外があって、クラシックのピアノの先生の集まりでは、全員がクラシック・ピアニストの演奏を支持するのだという。
それで著者は、音楽の好みは個人的なものではなく集団的に規定されている、などと問題を相対化してしまう。ちょっと待った。この話は、クラシックの教育をキッチリ受けた人はクラシック・ピアニストを支持するが、ジャズとクラシックのどちらの価値観にも染まっていないニュートラルな学生たちはモンクを支持する、ということである。つまり、著者は「引き分け」と言っているが、実は「ジャズの勝ち」ではないのか?
勉強しないと判らないものは、学問や制度であって芸術ではないと思う。この本に書かれているのは音楽の聴き方ではなく、クラシックの勉強の仕方のようだ。著者はクラシックの勉強の専門家だから、そこから離れるわけにはいかないのだろう。
(2012.4.15追記) この本を読んで、もの足りなかったので、自分で「ポピュラー音楽の聴き方」という本を書きました。
→ 他の音楽本の記事
著者が大学の授業などで、セロニアス・モンクの曲をクラシックのピアニストが弾いているCDとモンク本人のCDを聴かせると、全員がモンクのドタバダした演奏を気に入るのだそうだ。しかし例外があって、クラシックのピアノの先生の集まりでは、全員がクラシック・ピアニストの演奏を支持するのだという。
それで著者は、音楽の好みは個人的なものではなく集団的に規定されている、などと問題を相対化してしまう。ちょっと待った。この話は、クラシックの教育をキッチリ受けた人はクラシック・ピアニストを支持するが、ジャズとクラシックのどちらの価値観にも染まっていないニュートラルな学生たちはモンクを支持する、ということである。つまり、著者は「引き分け」と言っているが、実は「ジャズの勝ち」ではないのか?
勉強しないと判らないものは、学問や制度であって芸術ではないと思う。この本に書かれているのは音楽の聴き方ではなく、クラシックの勉強の仕方のようだ。著者はクラシックの勉強の専門家だから、そこから離れるわけにはいかないのだろう。
(2012.4.15追記) この本を読んで、もの足りなかったので、自分で「ポピュラー音楽の聴き方」という本を書きました。
→ 他の音楽本の記事
どて焼き ― 2009年11月21日
テレビでどて焼きの作り方を見て食べたくなり、初めて作ってみることにした。スジ肉は良いのを買って下さいと言っていたので、ダイエーの肉売り場でよくみると色々なスジがある。スジにこんなに種類があるとは知らなかった。一番赤身の多い「薩摩姫牛スジ肉」100g280円というのを買う。
味噌を麹味噌だけにした以外だいたいレシピどおりに作り、3時間煮込んだら結構旨くできた。ネギが無かったので、代わりにカイワレダイコンを乗せる。家族にも好評だった。
息子が「どて焼きってどういう意味?」と訊くので、牡蠣の土手鍋の話をしてそこからの転用だろうと答えたのだが、ウィキペディアをにも同じ意見が書いてあった。味醂を入れるとも書いてある。途中で味見をしたときに味醂を入れた方がいいかなとも思ったのだ。
学生時代にアルバイトした居酒屋のどて焼きがおいしかったのを思い出して、グーグル地図のストリートビューで見てみると、居酒屋は跡形も無くなっていた。
「魂のゆくえ」 くるり ― 2009年11月23日
「くるり鶏びゅ~と」はイマイチだったが、岸田繁の曲は良いなあ再認識したので新作を聴いてみる。このサウンドは奥田民生の名作「股旅」に良く似ている。旅がコンセプトの気だるいロックで、カントリー風の曲が混じっているところとか、オルガンの使い方とか、かなり近い。
なかなか良い曲が揃っているし、アレンジも肩の力が抜けた感じで良い。くるりのアルバムの中では一番気に入った。
「日本辺境論」 内田樹 (新潮新書) ― 2009年11月25日
日本はずーっと辺境として存在していたので、日本人の物の考え方は常に「世界はこうこうで、それに対して我々は…」という主体性の無い形になるという話。著者も最初に断っているように、これは新しい説ではなく養老先生や岸田秀先生も言っていることである。僕もお説に大体賛成である。
日本人は昔は中華文明に対して、明治以降は西洋文明に対して辺境人的に対応してきた。その結果、日本語には漢語とカタカナ西洋語が深く浸透している。自分の頭でモノを考えようとした日本人は必ずそのことに気付く。でも日本人の思考の基本は主体性の無い形なので、そういう認識は一般的にならなかった。
小脳論的にいうと、文字が無い古代は小脳優位で、文字を使うようになって大脳優位の時代が始まり、その仕上げの近代化が行き詰ったわけだから、これからは大脳と小脳のバランスが重要になるということになる。著者は武道の話もしているので、話は合う。
似たようなことを経済アナリストの藤原直哉さんが言っている。藤原さんは「起承転結」だという。中華文明に接する前の古代が「起」、中華文明の影響下にある時代が「承」、西洋に学ぶ時代が「転」で、これからはそれらを統合して「結」に至るというわけである。時代区分は藤原説の方が小脳論に近い。内田先生は古代に触れていない。
音楽とは何か ― 2009年11月26日
30年以上、わりと熱心にポピュラー音楽を聴いてきた。自分が気に入る音楽を探していると、「自分にとって良い音楽は何か」を考えるようになり、それを続けていると「良い音楽とは何か」を知りたくなり、そうすると「そもそも音楽とは何か」が問題になってくる。
そういうことを考えつつ自分の気に入る音楽を探し続けていると、自分の気に入る音楽が具体的にどういうものなのかは判ってきた。自分の気に入る音楽を聴いているうちに、「音楽とはサウンドである」と気付いた。
非常に当り前な結論だが、そう気付いてからは耳から鱗が落ちたように音楽がスッキリ素直に聴けるようになった。何でそんな当り前なことが今まで判らなかったのだろうと思う。感覚的・非意識的には判っていたのだが、何かが意識を妨げていた。それは何か?
音楽の3要素はリズム・メロディー・ハーモニーだということになっている。中学の音楽の教科書にもそう書いてあった。僕も何となくそういうふうに考えてきたのだが、そう考えるから判らなかったのである。音楽には、リズム・メロディ・ハーモニーの他に楽器の音色や人の声色という要素がある。実は、「その他に」じゃなくて、そっちの方が本質なのである。
音色を組み合わせたものがサウンドで、そこにはリズム・メロディー・ハーモニーも含まれている。音色は演奏する速さや音の高さによって、つまりリズムやメロディによって変わる。ひとつの音色には倍音の成分が含まれているから、ひとつの音がそもそもハーモニーなのである。
リズム・メロディ・ハーモニーはだいたい楽譜に書けるが、音色は書けない。「リズム・メロディ・ハーモニーが音楽の3要素」という発想は、楽譜という視覚言語に囚われている。音楽なのに視覚情報とはこれ如何に? これは視覚を偏重する近代化の弊害だ。
楽譜というのは非常に情報量の少ない記録メディアである。それに比べるとサウンドは情報量が桁違いに多い。パソコンでいうと1曲の楽譜は数十キロバイトのテキストファイルに収まるが、サウンドは数メガバイトの音声ファイルになる。物理的情報量を考えてみても、楽譜情報を偏重するのはおかしい。
というわけで、音楽とはサウンドである。だから音楽の聴き方は「音そのものを聴けば良い」ということになる。そのためには耳を鍛えなくてはならないような気がする。でも、我々の耳はいつでも音そのものを聴いている。自分の耳が聴いているものに気付けば良いだけである。簡単なことだったのだ。
(2012.4.15追記) 以上のような考えをもとに、「ポピュラー音楽の聴き方」という本を書きました。
そういうことを考えつつ自分の気に入る音楽を探し続けていると、自分の気に入る音楽が具体的にどういうものなのかは判ってきた。自分の気に入る音楽を聴いているうちに、「音楽とはサウンドである」と気付いた。
非常に当り前な結論だが、そう気付いてからは耳から鱗が落ちたように音楽がスッキリ素直に聴けるようになった。何でそんな当り前なことが今まで判らなかったのだろうと思う。感覚的・非意識的には判っていたのだが、何かが意識を妨げていた。それは何か?
音楽の3要素はリズム・メロディー・ハーモニーだということになっている。中学の音楽の教科書にもそう書いてあった。僕も何となくそういうふうに考えてきたのだが、そう考えるから判らなかったのである。音楽には、リズム・メロディ・ハーモニーの他に楽器の音色や人の声色という要素がある。実は、「その他に」じゃなくて、そっちの方が本質なのである。
音色を組み合わせたものがサウンドで、そこにはリズム・メロディー・ハーモニーも含まれている。音色は演奏する速さや音の高さによって、つまりリズムやメロディによって変わる。ひとつの音色には倍音の成分が含まれているから、ひとつの音がそもそもハーモニーなのである。
リズム・メロディ・ハーモニーはだいたい楽譜に書けるが、音色は書けない。「リズム・メロディ・ハーモニーが音楽の3要素」という発想は、楽譜という視覚言語に囚われている。音楽なのに視覚情報とはこれ如何に? これは視覚を偏重する近代化の弊害だ。
楽譜というのは非常に情報量の少ない記録メディアである。それに比べるとサウンドは情報量が桁違いに多い。パソコンでいうと1曲の楽譜は数十キロバイトのテキストファイルに収まるが、サウンドは数メガバイトの音声ファイルになる。物理的情報量を考えてみても、楽譜情報を偏重するのはおかしい。
というわけで、音楽とはサウンドである。だから音楽の聴き方は「音そのものを聴けば良い」ということになる。そのためには耳を鍛えなくてはならないような気がする。でも、我々の耳はいつでも音そのものを聴いている。自分の耳が聴いているものに気付けば良いだけである。簡単なことだったのだ。
(2012.4.15追記) 以上のような考えをもとに、「ポピュラー音楽の聴き方」という本を書きました。
最近のコメント