「Sanshirō」 NATSUME SŌSEKI ― 2011年01月21日
「夢を見るために 毎朝僕は目覚めるのです」 村上春樹 ― 2010年10月05日
「1Q84 book3」 村上春樹 ― 2010年04月18日
「走ることについて語るときに僕の語ること」 村上春樹 ― 2007年10月22日
今までのエッセイに断片的に書かれていた話も多くて、あまり目新しい内容はない。音楽でいうと過去の曲を録音しなおしたベスト・アルバムのような雰囲気だ。そういうのもそれなりに面白いものである。文体は今までの村上朝日堂エッセイのお気楽な雰囲気ではなく、何かリアルに迫ってくるものがあった。
ところで、僕は20年くらい前に探偵スペンサーと村上春樹の影響でジョギングを始めたことがある。10時ごろに会社から帰って寮の食堂で夕食を食べてから、近所の川沿いの暗い道を4キロ毎晩走った。会社で地下のロッカーから4階の居室まで階段を駆け上がっても息が乱れないようになったが、1ヶ月ほどで膝が痛くなって挫折した。
それ以来めったに走らなかったのだが、この本を読み終わったら妙に走りたくなって1キロほど走った。やっぱり膝が痛くなってきたので帰りは歩いたのだった。
「グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 ― 2006年12月11日
パーカーが引用しているのは「ギャツビー」の冒頭2ページ目くらいに出てくる「人の振舞いの基盤は、堅い岩である場合もあれば、沼沢である場合もある」という文句。これはパーカーの本を訳している菊池光の訳で、野崎訳だと「人間の行為には、堅い岩に根ざした行為もあれば、ぐしゃぐしゃの湿地から生まれた行為もある」になっている。村上訳は「人の営為は堅固な岩塊の上に築かれているかもしれないし、あるいは軟弱な泥地に載っているかもしれない」である。
野崎訳と村上訳を比べると野崎訳の方が滑らかでいい思う(ただし「ぐしゃぐしゃ」はいかがなものか)。村上訳は音読みが多くてやや引っかかりを感じる。でもよく考えると「ケンコなガンカイ」は音が硬いし、「ナンジャクなデイチ」は音が軟らかい。村上さんはリズムやサウンドを重視して訳したそうなので、そのへんまで考えてのことかもしれない。
20年前に読んだ時もそう思ったのだが、これってそんなに素晴らしい名作? もっと短くてもいいんじゃないか、短編を膨らませ過ぎたんじゃないのか。でもその膨らみ具合がいいのかもしれない、という気もする。さりげなく語ってあることが後で重要な意味を持ってくるような面白い仕掛けがいろいろあるということは今回よくわかった。
村上春樹と庄司薫 ― 2006年10月08日
「ハートフィールド」の正体については諸説あって、「太宰治+三島由紀夫だ」という人もいる(佐藤幹夫「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。」PHP新書)。そういえば、「赤頭巾ちゃん」の帯の紹介文を三島由紀夫が書いている。
どうも最近、世界的に評価の高まっている村上春樹を、日本文学の真ん中へんの流れに位置づけようという動きが盛んになりつつあるのかもしれないが、ハートフィールドはラブクラフト、R.E.ハワード、ヴォネガットあたりを混ぜた架空の存在だと村上春樹本人が言っている。
でも、あえてこじつければ、「赤頭巾ちゃん」と「風の歌を聴け」には共通点がある。まず第一に「あとがき」が付いているということである。そして、そのあとがきは、小説のフィクション世界と現実の境を曖昧にするために書かれている。
本来、あとがきは虚構の世界を語り終えた作者が現実の世界で書くという体裁のものである。しかし、「赤頭巾ちゃん」と「風の歌を聴け」のあとがきは、虚構の世界の語り手が書いているのだ。
「赤頭巾ちゃん」では語り手が作者のペンネームと同じ名前であるという設定の時点で既にフィクションと現実が交錯しているが、さらに「あとがき」で、山手線の駅近くに住んでいる自分を探しに来ないで欲しいなどという。
「風の歌を聴け」の方は、あとがきでハートフィールドの作品に巡り合ったいきさつやら、墓参りに行った話をもっともらしく語り、参考文献を挙げるが、これが全てフィクションであるにもかかわらず、最後に日付と自分の名前を記すことで現実であるかのように見せている。
つまり、どちらも「あとがき」をフィクション界と現実界の通路として配置している。
「赤頭巾ちゃん」のあとがきで主人公は、自分は兄が書いた小説の主人公であるような気もすると言う。「風の歌を聴け」の方はカバーのイラストに「BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMAS」と書いてあるが、これはこの小説が主人公の友人によって書かれたものであることを暗示している。つまり、「赤頭巾ちゃん」も「風の歌を聴け」も主人公に非常に近い登場人物が書いた小説であるというややこしい設定が施されているのだ。
「あとがき」によってフィクション界と現実界を繋ぐことと、登場人物がが書いた小説であるという自己言及的構造を用いることの目的は、語り手の視点をあいまいにするためである。
そういえば庄司薫って今どうしてるんだろうと思い、ググッてみたところ、ご本人の近況は不明だが、「赤頭巾ちゃん」シリーズの「ぼくの大好きな青髭」は雑誌連載時よりだいぶ短くてスジもちょっと違うところがあるらしい、ということを知った。そしてありがたいことに、その雑誌連載バージョンをネット上で読むことができる(「紙魚の筺 庄司薫」で検索)。ZoomBookというソフトをダウンロードする必要があって、ページをめくる時の読み込みにちょっと時間がかかるが、まあ読める。
しかも、同じ場所に村上春樹の単行本化されていない作品もあった。 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のもとになった「街と、その不確かな壁」まである。村上さんはこの作品について「研究者以外は読む必要ないでしょう」みたいなことを言っていたけど、前から興味があったので読めるのは嬉しい。
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→ 村上春樹の文章論
「あのひとと語った素敵な日本語」 あのひと+ユビキタ・スタジオ ― 2006年07月11日
「あのひと」が誰なのかはこの本のどこにも書かれていないが、実は彼女は村上春樹の奥さんのヨーコさんなのだった。何で作家の奥さんであるというだけでこんな本を出すのかという疑問もわくが、この奥さんはものの考え方がすごく明晰でやや過激というか極端なところもあり、キャラクターとしてかなり面白い。村上春樹の小説に出てきそうである。
村上春樹のエッセーに書かれているエピソード(昔ジャズ喫茶をやっていて苦労した話とか、夫婦喧嘩のこととか)もいろいろ出てきて楽しめたが、村上春樹のコアなファン以外にはあまり値打ちが無いかもしれない。ヨーコさんは岡本太郎にとっての岡本敏子さんみたいに村上春樹の仕事のサポートをしていてとても忙しそうだ。ヨーコさんのキャラと現在の仕事の状況に焦点を合わせたら、もっと広く読まれる本にできたと思う。
「これだけは、村上さんに言っておこう」 村上春樹 ― 2006年06月16日
ずっと前に出た村上朝日堂CD-ROM本から村上春樹と読者のメールを抜粋した「そうだ、村上さんに聞いてみよう」の続編。なんで今頃そんなものが出るのか。おまけみたいに台湾の読者、韓国の編集者とのやりとりがついている。あんまり買う意味がないような気がしたが、村上春樹フォロワーとして一応購入。
読んでみるとまあ面白かったのだが、意表を衝いて僕のメールが2通出てきた。8年も前のことを思い出して懐かしかった。買っといてよかった。
この本のプロモーションのために期間限定で村上朝日堂ホームページが復活していた。以前よりも自分の作品について率直に語るようになったようだ。最近「ノーベル賞候補」などと騒がれていることについては「脳が減るからいらない」とボケをかましている。
「意味がなければスイングはない」村上春樹 ― 2005年12月11日
元ジャズ喫茶マスターの著者がジャズ、ロック、クラシックのミュージシャンについてかなり深く語っている本。人選が渋めであまり興味が持てないなと思いつつ読んでみたら、意外に面白かった。
良い音楽とそれを生み出す音楽家の生活や社会状況との関わりについて掘り下げていて、それぞれ短い伝記のような感じになっている。創造性とか表現ということについて色々考えさせられた。何かを生み出すにはすごいエネルギーが必要だが、その源には自分の中の欠落を埋めたいという切実な動機があるのだろうか、とか。
日本からはナゼかスガシカオが選ばれている。歌詞を結構気に入っているようだ。村上春樹が前からいいと言っていたので、僕もアルバム1枚買って聴いてみた。ファンクっぽい打ち込みポップ。まあ緻密だし面白い音楽ではある。歌詞は全然聞いていなかったので、今度よく聴いてみよう。
この本を読んで、ビーチボーイズ「サンフラワー」(今は「サーフズ・アップ」と合わせて1枚のCDになっている。しかも1000円くらい)、ウィントン・マルサリス「シック イン ザ サウス」、ブルース・スプリングスティーン「ザ ライジング」、ウディ・ガスリー「ダスト ボウル バラーズ」(今は「リジェンダリー パフォーマー」というタイトルになっている)を買うことにした。
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