「騎士団長殺し」 村上春樹 ― 2017年02月27日
作者の過去の長編小説を全部混ぜて1つの形にまとめたような作品。特に、奥さんと別れてまた戻るまでの主人公の内面的な試練というストーリーの骨格は「ねじまき鳥」で、作品中に登場する絵の題名が小説の題名でもあること、妖精みたいな存在(騎士団長=カーネル・サンダース)が登場すること、誰かと誰かの親子関係の有無が重大問題で、その真偽が未確定なことなどは「カフカ」。
僕にとって、村上作品の最大の謎は、この妖精みたいなものが何を意味しているかだ。過去の期間限定サイトなどで作者は、それが物語の中にだけ存在するものではなく、我々の意識のありようによっては現実に存在を感じられるものだというような説明をしていたと思う。
「騎士団長殺し」を読みながらそのことについて考えていると、騎士団長がイデアの説明をするために左右の脳のことを言い出したので、村上春樹の愛読書「神々の沈黙」(ジュリアン・ジェインズ)が思い浮かんだ。
村上作品に出てくる妖精みたいな存在は、主人公を問題解決に導くわけだから、「神々の沈黙」でいうところの右脳が発する神の声に相当するのではなかろうか。村上春樹は、神とは言わないまでも、困ったときにヒントをくれる妖精ぐらいなら我々の内側にいるということと、その声を聴くための意識のあり方はどんなものなのかを物語として表現しているような気がする。
この小説には、妖精的存在とは別の非現実的なものとして、生き霊も登場する。それについて思い浮かぶのは「雨月物語」(上田秋成)。これは江戸時代に書かれた怪談話で、村上春樹がインタビューなどで好きな物語としてたびたび挙げているもの。「騎士団長殺し」に登場する老いた画家の名字の雨田は雨月物語から来ているのではないか。
僕にとって、村上作品の最大の謎は、この妖精みたいなものが何を意味しているかだ。過去の期間限定サイトなどで作者は、それが物語の中にだけ存在するものではなく、我々の意識のありようによっては現実に存在を感じられるものだというような説明をしていたと思う。
「騎士団長殺し」を読みながらそのことについて考えていると、騎士団長がイデアの説明をするために左右の脳のことを言い出したので、村上春樹の愛読書「神々の沈黙」(ジュリアン・ジェインズ)が思い浮かんだ。
村上作品に出てくる妖精みたいな存在は、主人公を問題解決に導くわけだから、「神々の沈黙」でいうところの右脳が発する神の声に相当するのではなかろうか。村上春樹は、神とは言わないまでも、困ったときにヒントをくれる妖精ぐらいなら我々の内側にいるということと、その声を聴くための意識のあり方はどんなものなのかを物語として表現しているような気がする。
この小説には、妖精的存在とは別の非現実的なものとして、生き霊も登場する。それについて思い浮かぶのは「雨月物語」(上田秋成)。これは江戸時代に書かれた怪談話で、村上春樹がインタビューなどで好きな物語としてたびたび挙げているもの。「騎士団長殺し」に登場する老いた画家の名字の雨田は雨月物語から来ているのではないか。
「Novel 11、Book 18」 ダーグ・ソールスター(村上春樹訳) ― 2016年11月18日
エリート官僚の人生がだんだん変な方向にそれていって...という話。主人公は自意識過剰の空疎な人格で、エリート官僚にありがちな内面を戯画化しているようにも思える。主人公に共感できないうえ、リアルタイムに描写しているのか過去を振り返っているのか曖昧な語り口の三人称文体が落ち着かない。ずーっと不吉な気分が漂っている。途中で読むのがイヤになり、最後の3割ほどは斜めに読んでしまった。
僕は村上春樹の訳した小説をいろいろ読んだが、面白いと思ったのは「ギャツビー」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「ロング・グッドバイ」だけで、つまり古典的名作の新訳だけということになる。それで、村上翻訳本にはもう付き合わないことにしていたのだが、久しぶりにこれはちょっと面白そうだなと思って読んでみたのだが、やっぱりダメだった。
僕は村上春樹の訳した小説をいろいろ読んだが、面白いと思ったのは「ギャツビー」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「ロング・グッドバイ」だけで、つまり古典的名作の新訳だけということになる。それで、村上翻訳本にはもう付き合わないことにしていたのだが、久しぶりにこれはちょっと面白そうだなと思って読んでみたのだが、やっぱりダメだった。
「Wind / Pinball」 村上春樹 ― 2016年07月18日
「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」の英訳を1冊にまとめた本。
この2冊の英訳は昔、日本人向けに講談社英語文庫で出たが、すぐに絶版になり、海外向けの英訳が無かったのでレア本になっていた。僕は両方持っていたが、アマゾンでそれぞれ4千円くらいで売れた。新版が出たので、今は2千円代に相場が下がっているようだ。
翻訳は、英語文庫のアルフレッド・バーンバウムと違って、テッド・グーセンという人の新訳。本の最初に村上春樹によるイントロダクションが付いている。ジャズ喫茶をやっていた頃に、神宮球場の外野席で突然小説を書こうと思って、深夜のキッチンテーブルで執筆したという例の有名な話など。
日本語版「風の歌を聴け」の最後に付いている「あとがき」がカットされている。あれは主人公と作者を一体化して虚実の境を曖昧にする面白い仕掛けなのにと思ったが、よく考えると、「風の歌」と「ピンボール」の間にあれが挟まるのはよろしくないね。
久しぶりに読むせいか、英語で読むからか、細部のイメージが記憶と違って新鮮だった。
この2冊の英訳は昔、日本人向けに講談社英語文庫で出たが、すぐに絶版になり、海外向けの英訳が無かったのでレア本になっていた。僕は両方持っていたが、アマゾンでそれぞれ4千円くらいで売れた。新版が出たので、今は2千円代に相場が下がっているようだ。
翻訳は、英語文庫のアルフレッド・バーンバウムと違って、テッド・グーセンという人の新訳。本の最初に村上春樹によるイントロダクションが付いている。ジャズ喫茶をやっていた頃に、神宮球場の外野席で突然小説を書こうと思って、深夜のキッチンテーブルで執筆したという例の有名な話など。
日本語版「風の歌を聴け」の最後に付いている「あとがき」がカットされている。あれは主人公と作者を一体化して虚実の境を曖昧にする面白い仕掛けなのにと思ったが、よく考えると、「風の歌」と「ピンボール」の間にあれが挟まるのはよろしくないね。
久しぶりに読むせいか、英語で読むからか、細部のイメージが記憶と違って新鮮だった。
「村上春樹は、むずかしい」 加藤典洋 (岩波新書) ― 2015年12月28日
僕は村上春樹の長編を全部3回以上読んでいるが、どう受けとめたらいいのか判らないことも多い。それで村上作品に関する評論本もたくさん読んだのだけど、ちゃんと本質を捉えているなと思えて説得力があったのは、加藤典洋の「イエローページ・村上春樹」と「村上春樹の短編を英語で読む」だけだった。
この本は新書だから、「イエローページ」や「英語で読む」に比べると分量は少ないが、そうかナルホドと頷ける内容だった。
東アジアで村上春樹の人気が高いのは知っていたが、インテリは馬鹿にしているというのは知らなかった。しかし、日本でもちょっと前までそうだったわけで、著者はそういうインテリの評価を覆そうとしてきた。この本はそこに話を絞って、村上作品そのものの評論よりも、村上作品の文学的・社会的な意義についてハッキリさせようとしている。
僕は著者の話に納得したが、個人の意識のあり方と社会のあり方が連動しているという認識の無い人にはピンと来ないかもしれない。
この本は新書だから、「イエローページ」や「英語で読む」に比べると分量は少ないが、そうかナルホドと頷ける内容だった。
東アジアで村上春樹の人気が高いのは知っていたが、インテリは馬鹿にしているというのは知らなかった。しかし、日本でもちょっと前までそうだったわけで、著者はそういうインテリの評価を覆そうとしてきた。この本はそこに話を絞って、村上作品そのものの評論よりも、村上作品の文学的・社会的な意義についてハッキリさせようとしている。
僕は著者の話に納得したが、個人の意識のあり方と社会のあり方が連動しているという認識の無い人にはピンと来ないかもしれない。
「職業としての小説家」 村上春樹 ― 2015年10月06日
自伝的エッセイだが、春樹さんの愛読者にとってはほぼおなじみの内容だ。でも面白かった。
一番のキモだと思ったのは、何かを自由に表現したい人へのアドバイスとして、「自分が何を求めているか」よりも「何かを求めていない自分とはどんなものか」を頭の中でビジュアライズしてはどうかと言っているところ。
これはちょっと禅の公案みたいだけど、僕も最近同じようなことを考えていたところだ。僕の解釈だと、何かを求めているときはその何かにとらわれているのであって、何も求めていないときの方が視野が広く心が自由になるという意味。そういう理屈っぽい言い方だと、はいはいそうですかと頭だけで判ったつもりになりがちだから、ちょっと工夫した表現になっているのだ。
村上作品が世界中で読まれるようになった元を辿ると、アメリカで英訳本が売れたところがスタートらしい。それはアメリカの出版社が翻訳書として売り出したのではなく、村上さん本人が訳者にお金を払って英語版を作り、それを雑誌や出版社に持ち込んで他の英語で書く著者と同じ扱いになるようにして勝負した結果であるようだ。実務能力あるなあ。
一番のキモだと思ったのは、何かを自由に表現したい人へのアドバイスとして、「自分が何を求めているか」よりも「何かを求めていない自分とはどんなものか」を頭の中でビジュアライズしてはどうかと言っているところ。
これはちょっと禅の公案みたいだけど、僕も最近同じようなことを考えていたところだ。僕の解釈だと、何かを求めているときはその何かにとらわれているのであって、何も求めていないときの方が視野が広く心が自由になるという意味。そういう理屈っぽい言い方だと、はいはいそうですかと頭だけで判ったつもりになりがちだから、ちょっと工夫した表現になっているのだ。
村上作品が世界中で読まれるようになった元を辿ると、アメリカで英訳本が売れたところがスタートらしい。それはアメリカの出版社が翻訳書として売り出したのではなく、村上さん本人が訳者にお金を払って英語版を作り、それを雑誌や出版社に持ち込んで他の英語で書く著者と同じ扱いになるようにして勝負した結果であるようだ。実務能力あるなあ。
「神々の沈黙」 ジュリアン・ジェインズ ― 2015年04月13日
村上春樹さんが繰り返し読んでいるという本。言っていることは非常に興味深くて、共感できるものだった。
我々現代人が持っているような意識が生じたのは3千年前くらいのことで、それ以前の人は、右脳から発する幻聴を神の声として聴き、その指示に服従するという「二分心」の状態にあったというのが著者の考え。
著者はその証拠としてギリシャ神話や旧約聖書などの古代の文献の表現を読み解いていく。僕はそのへんの詳細にはあまり興味が持てなかったのでナナメに読んだ。
なぜ神の声が沈黙してしまったのかというと、社会が複雑になって単純に神の声に従っていたのではうまくいかなくなったからだという。
人間が自分の中に持っていた「迷いなく従うことのできる神の声」を失ったことが、我々の根源的な不安の元であり、3千年前くらいから宗教というものが人間の外側に成立してくる理由である。なるほど、そう考えるともの凄く辻褄が合う。
この本の中に「物語化」という言葉が重要な概念として出てくる。我々の意識が、実際の経験の様子ではなく、こうであったはずだと想定した経験の様子を知覚してしまうことである。この本は、村上春樹の小説が表現しようとしていることの説明にもなっているような気がする。
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾・村上春樹 (新潮文庫) ― 2015年04月03日
僕が持っている900枚くらいのCDのうちクラシックは30枚ほどしかない。しかもそのうち半分はグールド。クラシック音楽を聴いてもあまり楽しくない。クラシック音楽の聴きどころがちょっとは判るかなと思って読んでみた。
クラシックファンじゃないので、興味が続かないところは少し飛ばして読んだが、まあまあ面白かった。村上春樹はジャズ喫茶のマスターだったからジャズに詳しいのは有名だが、クラシックに関してもメチャ詳しい。小澤征爾はガチガチのクラシックの人かと思ったら、シカゴに住んでいたときには毎晩のようにブルースのライブを聴きに行っていたというのが意外だった。
文庫版のオマケで、大西順子と小澤征爾が共演した経緯が書かれていて、これが一番面白かった。
この本を読んで小澤征爾に好感を持ったので、CDを聴いてみようと思って検索したら、80歳記念で80曲入った5枚組CDというのが出ていて手頃なので買った。全般的にメリハリのある活き活きとした演奏で、クラシックにしてはグルーブがあるような気がした。
「村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011」 加藤典洋 ― 2011年10月29日
僕は村上春樹の小説は全て熱心に読むのだが、短編はちょっと苦手だ。長編も短編もシュールで何を言っているのか分かりにくいが、長編は手がかりが多いから何度か読んでいるうちに何となく分かってくる。短編はヒントが少ないので、解答の無い問題集を解いているような気分になるのだ。
村上春樹の小説は謎が多いので、解読本もたくさん出ている。春樹さんは「そんなものを買うくらいなら、そのお金でおいしいものでも食べた方が良いです」とか言っていたが、僕も答えが知りたくて謎解き本を買ってしまう。そういう村上春樹関連本にはハズレも多いのだが、この本はかなり面白くて説得力がある。長編への言及も多く、村上作品全体への理解が一挙に深まったような気がする。600ページもある分厚い本で3600円もするので買うのをためらったが、充分値打ちがあった。
ただ、そんなネタバレというかカンニングペーパーみたいな本を読むことに意味があるのだろうかという疑問も残る。でも、この本を読んで面白がるのは、村上作品を愛読して自分なりに考えて悩んだ人だけだろう。自分で考えもせずに答えだけ解答欄に書きこむカンニングとは違う。自分で考えた答案の答え合わせみたいなものだ。
タイトルに「英語で読む」とあるが、英語はほとんど出てこない。
「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」 村上春樹 ― 2011年08月02日
春樹さんは最近あまりエッセイを書かなくなってしまった。その理由は、あらゆるネタを小説のために取っておきたいからということのようである。期間限定のウェブサイトも開設しなくなった。そのかわりテレビのニュースでスピーチ映像が流れたりする。
久しぶりのエッセイなので楽しみに読んだが、なんかカドが取れてマイルド過ぎるような気がする。言いたいことはちゃんと言っているのだが、なんか抑制された言い方になっている。昔の村上朝日堂シリーズにはちょっと突っ張ったところもあって、そこが良かった。昔と違って世界的に影響力のある人物になってしまったので、いろいろ気を使っているようだ。
でも、まあ面白いことは面白かった。もったいないので毎日少しずつ読んだ。近々読み返したい気もする。
「村上春樹 雑文集」 ― 2011年02月17日
村上春樹のデビュー以来の未発表の文章やら受賞の挨拶やらを集めたもの。結構分厚い本だが、短い文章が多くて、当然ながらテーマも文体も一貫していない。音楽でいうとシングルB面集。あまり入り込めない。でもちょっとずつ読んでいくと、いろいろ面白いところもある。
心身の左右のバランスが崩れたときは、ピアノでバッハの二声のインベンションを弾くと良いという話があった。僕も高校生の頃に練習したが、左手がうまく動かなくて歯痒くなり、終いにはこんな左右均等な変な曲を作りやがってとバッハに腹が立ってきたものである。春樹さんはバッハのことを天才だが相当変な人だったんだろうなと書いているが、僕もそう思う。
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