「音楽の聴き方」 岡田暁生 (中公新書)2009年11月13日

音楽の聴き方は自由だし、クラシック音楽の聴き方に限った話をしたいわけではないと著者はいう。ほうほう、と思って読んでみると、でも今のポピュラー音楽の楽器や技法も19世紀西洋由来なんだから、やっぱり音楽を聴くにはクラシック音楽の文法みたいなものを勉強した方が良いという話になる。

著者が大学の授業などで、セロニアス・モンクの曲をクラシックのピアニストが弾いているCDとモンク本人のCDを聴かせると、全員がモンクのドタバダした演奏を気に入るのだそうだ。しかし例外があって、クラシックのピアノの先生の集まりでは、全員がクラシック・ピアニストの演奏を支持するのだという。

それで著者は、音楽の好みは個人的なものではなく集団的に規定されている、などと問題を相対化してしまう。ちょっと待った。この話は、クラシックの教育をキッチリ受けた人はクラシック・ピアニストを支持するが、ジャズとクラシックのどちらの価値観にも染まっていないニュートラルな学生たちはモンクを支持する、ということである。つまり、著者は「引き分け」と言っているが、実は「ジャズの勝ち」ではないのか?

勉強しないと判らないものは、学問や制度であって芸術ではないと思う。この本に書かれているのは音楽の聴き方ではなく、クラシックの勉強の仕方のようだ。著者はクラシックの勉強の専門家だから、そこから離れるわけにはいかないのだろう。

(2012.4.15追記) この本を読んで、もの足りなかったので、自分で「ポピュラー音楽の聴き方」という本を書きました。

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「ロックで独立する方法」 忌野清志郎2009年10月15日

音楽で食べていくということについて、明晰に語っている。前衛は売れないからイヤだが、売れセン狙いのポップもイヤだ。そういうジレンマを抱えながら、自分なりのオリジナリティを模索していくしかないという。これは心ある表現者は必ず意識していることだと思う。奥田民生も村上春樹も同じようなことを言っていた。

岡本太郎の「今日の芸術」をすごい本だと紹介している。芸術にはアヴァンギャルドとコンテンポラリーがあって、アヴァンギャルドが時代をぶっ壊し、コンテンポラリーはそれをうまく取り入れて流行にする。そういうことが書いてある、と。今の時代の閉塞感は、みんなが安全で儲かるコンテンポラリーに回ってしまったせいだとキヨシローは言う。

音楽ジャーナリズムにも疑問を呈する。GLAYのコンサートに何十万人とかB'zのベストアルバムが何百万枚とか、音楽の話題じゃなくて統計の話題じゃないか。インタビューでもなぜこの曲を歌うのかとか歌詞のことは訊かれるが、音楽そのもののことを全然訊かれないのだという。

その他、音楽業界の問題点とそれに対処する苦労を自伝的にストレートに語っていて、非常に面白かった。ミュージシャンに限らず、社会の中で独立して生きるということについて、示唆に富んでいる。

 → 「瀕死の双六問屋」 忌野清志郎

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「瀕死の双六問屋」 忌野清志郎 (小学館文庫)2009年09月25日

短い文章とレコード評をセットにした雑誌連載をまとめたもの。口述等でなく唯一まじめに自分で書いた本というだけあって、文章が内容形式ともにすごく面白い。ちょっとシュールな超短編小説の回もあれば、わりとストレートな文章の回もあって、虚実のブレンド具合がうまい。自由自在に書いている。やっぱり言葉の使い手である。

あとがきによると、キヨシローは2006年に喉頭ガンと診断されたとき、声を失いたくないので手術をしなかった。手術を避けて放射線治療をしても唾液線を失うので1、2曲しか歌えなくなる。それで、治療しなければ余命半年と宣告された現代医学から逃げ出して、代替医療に切り替えたとのこと。この話は本文でキヨシローが書いていることと言行一致している。

 → 「ロックで独立する方法」 忌野清志郎

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「耳で考える」 養老孟司 久石譲 (角川oneテーマ21)2009年09月23日

最近、音楽って何?ということを考えていたので楽しみに読んだ。音楽は抽象性が強く、ほとんど自然を参照していないところが他の芸術と異なるような気がする。これは一体何なのか。その件についての突っ込みは浅かったが、他に面白い話はいろいろあった。

久石譲が、完成度の高い曲は楽譜をパッと見て判るといっているのが興味深い。音符の並び方が美しいのだそうだ。これは僕の専門である機械設計でも同じことがいえる。ややこしい図面でもパッと見ればその美しさで何となく完成度が判る。

耳や音楽の話とは別に、久石譲が村上春樹と宮崎駿の作品のシンクロニシティを指摘しているのが面白かった。具体的な共通性はあまり言わないが、例えば作家性の強い「海辺のカフカ」と「千と千尋の神隠し」は同時期に作られている。たしかにどちらも子どもが試練に会って魑魅魍魎が出てくるワケの判らない話なのに世界的に受けた。

僕は村上春樹と奥田民生がシンクロしていると思うのだが、村上春樹と宮崎駿の表現上の共通性はそれほどでもない。これは村上春樹と奥田民生が耳の人であるのに対して、宮崎駿は目の人だからではないだろうか。

 → 「虫眼とアニ眼」 養老孟司・宮崎駿

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「大衆音楽史」 森正人 (中公新書)2008年12月11日

文化地理学者である著者がフォーク、ジャズ、ブルース、ロック、レゲエ、パンク、ラップの成立について歴史的地理的要因という観点で論じている。それぞれのジャンルが生まれた社会背景が分かってなかなか面白かった。

ポピュラーミュージックの歴史を遡ると、産業革命によって失業者が増えたロンドンのストリートミュージシャンから始まったようだ。その後世界経済の中心がイギリスからアメリカに移るのに伴って、大衆音楽の中心もアメリカに移る。そこで差別される黒人や貧しい若者によって新たなジャンルが生み出され続けてきた。なるほど、あるジャンルが商業的に作られていくときには聴衆の反抗的エネルギーが最大限に利用されているわけである。

著者は、「大衆音楽が抵抗の手段でありながら産業化されていることは矛盾するようだが、それでいいのだ」と言いたいようだ。本当にそれでいいのか? 変革に向かうべきエネルギーのガス抜きになっているだけかもしれない。だから僕は昔からあまり反抗的な体裁をとった音楽に熱中しない。逆にあまりにも商業的成功ばかり目指した音楽もつまらない。要するに音楽としてどうよ、という点が一番重要である。

音楽として、という部分で頑張っていればジャンルはあまり意味が無くなると思う。そこに込められた密かなメッセージの方が実は有効に伝わるのではないか。様式美みたいなスタイルに頼ったメッセージ性はあっという間に消費されて終わる。

ところで、今後アメリカ経済が崩壊したら大衆音楽の中心もどこかに移るのだろうか。それとも世界が多極化して音楽も多極化するのか。ラップの後にどういうジャンルが生まれるのか。Jポップはこれからも世界に影響を与えられないままなのか。僕はそういうことにすごく興味があるのだが、著者は未来には全く関心が無いらしく一言も触れていない。

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「ぼくはエクセントリックじゃない グレン・グールド対話集」 ブルーノ・モンサンジョン編2007年07月20日

グールドが何を思ってああいう個性的な演奏をしているのかを知りたくて読んでみた。僕が理解したグールドの言い分は以下のとおりである。

多くの演奏家は作曲家が絶対的にエライと考えて、作曲家の考えたことをなるべく忠実に再現しようとしている。でもグールドは曲に対して作曲家も演奏家も聴き手も平等に創造的であるべきだと考えているようだ。つまりグールドは演奏することによって作曲に協力しているわけである。そういう考えの延長で、レコーディングする時は複数のテイクを組み合わせたりもする。テクノロジーが発達したら、編集前の複数テイクをそのまま世に出して聴き手が自由に編集するようになれば良い、テンポだって聴き手が好きなように変えれば良いという。

曲を評価するときの価値観も明快である。何よりも対位法を重視している。対位法というのは複数のメロディが同時に鳴っていることだが、グールドは同時に鳴っているメロディに注目するだけではなく、一度現れたメロディがその後どう展開するかもよく問題にしている。曲というのはメロディのパーツでできていて、同時に鳴っているメロディも時間的に離れているメロディもうまい具合に響き合っているのがよい曲である、ということのようだ。

グールドの考えはシンプルで分かりやすい。なるほどそういう観点でグールドの演奏を聴いてみると今までよりもっと楽しめる。ぼんやりと聴いていた音楽に耳のピントが合ったように感じる。

ピアノ演奏について語っている中に「ピアノ演奏の秘訣は、部分的には、この楽器からうまく離れる離れ方のうちにあるのです。・・・私は、自分がしていることに全身的に身を委ねながら、自分自身に距離を置く手段を見出さなければなりません。」とあった。この前僕が書いた「グールドは自分の意識を曲から一定の距離に保ち続けているような気がする」という感想は合っていた。

クラシック音楽全体についての見方もスッキリしていていろいろ勉強になった。モーツァルトやベートーヴェンみたいに一般に評価の高い作曲家のことも非常にクールに評していて面白い。他にも、コンサートは好きじゃないとか、ピアノの練習はしないとか、興味深い話がいっぱい出てくる。翻訳はちょっと直訳調で頼りない。

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「西洋音楽史」岡田暁生(中公新書)2006年04月02日

副題が「『クラシック』の黄昏」というくらいで、クラシックはもう終わりだという認識のもとに、クラシック音楽がどういう風に変化してきたのかを語っている。専門用語を使わず率直で断定的な文章で書かれていて面白い。僕はクラシックはあまり聴かないが、音楽の構造がどう発展してきたかがよく判る。

最後の章でポピュラー音楽にも触れていて、ドレミ音階を使ってドミソ等の和音で構成されるポピュラー音楽はクラシックのロマン派を継承しているという話はナルホド。

クラシックは200年くらいかけて発展して末に行き詰まったというわけだが、他のジャンルでもジャズはマイルズがポップ・ロックはビートルズがひととおりやり尽くして行き詰ったのは同じである。その先の可能性がラップにあるとも思えないし、いったいどうなるのだろう?

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「意味がなければスイングはない」村上春樹2005年12月11日

元ジャズ喫茶マスターの著者がジャズ、ロック、クラシックのミュージシャンについてかなり深く語っている本。人選が渋めであまり興味が持てないなと思いつつ読んでみたら、意外に面白かった。

良い音楽とそれを生み出す音楽家の生活や社会状況との関わりについて掘り下げていて、それぞれ短い伝記のような感じになっている。創造性とか表現ということについて色々考えさせられた。何かを生み出すにはすごいエネルギーが必要だが、その源には自分の中の欠落を埋めたいという切実な動機があるのだろうか、とか。

日本からはナゼかスガシカオが選ばれている。歌詞を結構気に入っているようだ。村上春樹が前からいいと言っていたので、僕もアルバム1枚買って聴いてみた。ファンクっぽい打ち込みポップ。まあ緻密だし面白い音楽ではある。歌詞は全然聞いていなかったので、今度よく聴いてみよう。

この本を読んで、ビーチボーイズ「サンフラワー」(今は「サーフズ・アップ」と合わせて1枚のCDになっている。しかも1000円くらい)、ウィントン・マルサリス「シック イン ザ サウス」、ブルース・スプリングスティーン「ザ ライジング」、ウディ・ガスリー「ダスト ボウル バラーズ」(今は「リジェンダリー パフォーマー」というタイトルになっている)を買うことにした。